なぜ自国の「国家権力」だけを危険視するのか

 テロ等準備罪を新設する組織犯罪処罰法改正案が国会提出された。反対派は早速「労組や市民団体も対象にされる」だの、「居酒屋での冗談もテロ準備になりかねない」だのといった極論も交えつつ、反対の世論づくりに躍起といえる。このような法律はいかようにも解釈され、市民の意見表明を萎縮させたり、監視社会を招く、というのだ。

 かつての特定秘密保護法、そして一昨年の平和安保法制に対する反対運動の盛り上がりを再び、というのが思惑なのだろうが、それが「二匹目のドジョウ」となるかはともかく、ここではこうした反対派の主張に対する筆者の素朴な疑問を開陳してみたい。

 これら反対派の主張に共通するのは、要は国家権力に対する不信であろう。戦前の治安維持法すら持ち出し、治安立法というものは必ず拡大解釈されるとし、国家権力とはそういうものだ、とまことしやかに説く主張もある。この法案への反対論ではないが、かつて東京新聞社説が植木枝盛の「世に良政府なる者なきの説」を引きつつ、「人民が政府を信ずれば、政府はそれに付け込んで、何をするかわからない」としたのも、そうした認識の一環といえる。

 むろん、その全てが誤りというのではない。しかしここで指摘したいのは、かかる国家権力観の明らかな「矛盾」ともいうべき点である。それほど国家権力というものを危険視するのなら、何で憲法前文の以下の規定に問題を感じないのか、ということだ。

 「日本国民は……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

 自国の政府は信頼できないが、外国の政府なら信頼できるという宣言だ。しかし、自国政府の「公正と信義」は認めないのに、どうして外国政府にはそれが認められ、自らの「安全」のみならず「生存」までをもそれに委ねられる、などということがいえるのか。

 いや、ここにあるのは「諸国民」であり、政府に関わる話ではない、との反論もあろう。しかし、そうとしても、そもそも「国家権力」が信用できない以上、そんな「国民」の声が政府に届く筈もなく、結果的に単なる空想で終わる他ない、と考えるのがむしろ自然なのではないか。

 いずれにしても、「世に良政府なる者なき」とまでいうのなら、それを外国の政府に対しても徹底するのが、理の通った議論というべきだ。外国の政府は信じられて、日本の政府は「何をするかわからない」から、その全てに反対だというのは自虐の度が過ぎる。中国や北朝鮮は「理想国家」だというのなら話は別だが、国家権力がそもそも危険なものだとするのなら、外国の国家権力に対しても当然警戒が必要ではないか。

 これは立憲主義を強調する際の議論にもいえる。国民は自らの権利の保障のために権力を縛らねばならない、と論者はいう。その言やよし。しかし、その権利を侵すのは何も自国の国家権力だけでない。外国の国家権力によりわれわれの権利が侵される、という事態も当然あり得る。とすれば、かかる国家権力をどうして縛るかも同時に考えなければ、本当の立憲主義とはいえないのではないか。つまり、国民の権利を守るために、そうした外国の国家権力に対する防波堤を築く、という発想もまた必要なのだ。

 そのためには、自国の国家権力をただ縛るという発想だけでは話は完結しない。憲法十三条には「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については……立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあり、そうとすれば、それを侵すものに、むしろこの国家権力をもって対抗する、というのもこの規定の趣旨と考えるからだ。権力に対する警戒は当然だ。しかし、それをただ危険視するだけでは、権利は守れない。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成29年4月号〉