「平和・民主主義・人権」には確固たる基盤が必要だ

 憲法改正というと、すぐさま「平和・民主主義・人権を守れ」という言葉が返ってくるのが、わが国の言論の現状である。しかし、最近筆者はこうした護憲派の主張に疑問を感じ始めている。本当に彼らはこの平和・民主主義・人権を守る気があるのか、と。

 例えば第九条である。一項には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」とある。しかし、ここにある「正義と秩序を基調とする国際平和」とは具体的にはどのようなものだろうか? 少なくとも、他国の領海や公海を力づくで支配し、周囲の国々を排除したり、威圧を加える、現在の南シナ海のような現実でないことは明らかだろう。あるいは、わが尖閣海域の現状もそうだ。とすれば、そうした平和を「誠実に希求し」というわれら日本国民は、かかる現実を断じて容認できはしない筈だ。でなければ、この言葉が全くの嘘になってしまうからだ。しかし、ただ九条を守れと主張する面々はこの言葉にどれだけの重みと責任を感じているのであろうか。

 人権についても同様である。例えば憲法第十三条は「すべて国民は、個人として尊重される」と規定する。しかし、その個人が尊重されるためには、その個人が属する社会が健全に維持されていることが前提となる。その社会が無秩序化したり、明日をも保証できない問題だらけの社会になったとすれば、そんな憲法の規定など単なる空文で終わる他ないからだ。しかし、筆者が見る限り、これを主張する面々はこうした社会という基盤、あるいはその健全なあり方といった問題には全く関心がないようだ。

 今年に入り、昨年一年間に産まれた子供の数が初めて百万人を割った、という衝撃のニュースが話題になった。ところが、朝日新聞がこれに対し提示したのは、「家庭の形 時代とともに」と題する論説だった。要は家族というものは多様であるべきであり、子供をもつ家族も、それを望まない家族も、それぞれが自由であってよいというのだ。

 むろん、自由であって悪いというのではない。しかし、この社会がそうした考えによって全て覆われた時、そこには何が生ずるか、という問題もまた同時に考えてみるべきだと指摘したい。多様がよいといって、だれもがそれを実践し、非婚が増え、またこの論説にある「『子供のいる人生』とは違う人生」を選択する者が更に増えていくとすれば、子供の数はますます減っていこう。それでなくともこの七十年間で三分の一に激減してしまったのである。

 これはどう考えても「多様であるべき」などと、お気楽をいっていられる場合ではない。この社会の持続性を確保すべく、逆にわれわれには何ができるかを、むしろ真剣に考えるべき時だと筆者は考えるのだ。いくら個人が尊重されるべきといっても、それを保障する社会が持続困難となれば、むしろそんな主張は瞬時に吹き飛んでしまう可能性の方が高いといえよう。

 とすれば、個人尊重をいう者は、この社会の維持、あるいはその将来にもっと関心をもつべきではないか。個人が尊重されるべきとしても、ただそれを唱えているだけでは、いずれその主張自体が成り立たなくなる。それが今後も可能であるためには、むしろそれを保障し得る社会の存続を論ずべきだ。そしてそのためには、若者がもっと結婚するようになり、家族が尊重され、子供を産み育てることの価値が認識される必要がある。

 筆者がいいたいのは、本当に平和、民主主義、人権を守れというのなら、そのための条件を考えろ、ということだ。それが成り立つためには確固とした基盤が同時に必要である。憲法改正はそうした基盤を整えるためのものであり、それ以外のものではない。これを指摘したい。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成29年3月号〉