こんな「家族観」ではダメだ!

 「ブルータス、お前もか!」ではないが、産経2月19日付の福島敏雄論説委員の家族論には失望させられた。氏は最近問題になっている無縁死や孤独死を論じつつ、「無縁死や孤独死を防ぐための最低限の手立ては、……国家によるセーフティーネットを充実させることである」といとも軽やかに説いているからである。これでは朝日と同じではないかといいたくなるとともに、ならば財源はどうなるのかと聞いてみたくなった。

 と同時に、以下の家族に対する考え方には怒りすら覚えた。――「日本という国は、いまだに家族や親族という『族』が老いや病や貧困に苦しむ者たちを助けるべきだとする古典的な発想にとらわれたままである」と。

 むろん、筆者といえども、だからといって「全てを家族で解決すべきだ」などという者ではない。そんなことはそもそも不可能だし、できない部分は国家が支えるべきだとも思う。しかし「まず家族の責任で」と考える者を「古典的な発想」などと見下すのは、一体どんなものだろうか。

 新聞の伝えるところによれば、2010年度の年金・医療・介護を含む全体の社会保障給付費は105.5兆円とのことで、これが厚生労働省による試算では、2025年度には141兆円へと約36兆円増える見込みだという。内訳をいえば、年金にかかる費用は1.3倍に留まるものの、医療は1.7倍、介護が2.7倍に増えるというのだ(毎日・昨年7月18日付)。少子化がこれからますます本格化していく中で、そもそもこんな巨額な給付が可能かが問題だが、にもかかわらず、福島氏は解決策は「国家によるセーフティーネットを充実させることである」というのである。

 と同時に、わが国の一般会計と特別会計を合わせた総予算における歳出のうち、社会保障関係費と国債利払いに要するものは今や全体の70%以上を占めるまでになり、日本はこのままでは「社会保障と借金返済が政策の全て」という国になってしまう、とする指摘もある。福島氏は「だから消費税増税を」といいたいのかも知れないが、そのためには少なくとも十数%の税率が新たに必要とされることを忘れるべきではない。

 とはいえ、筆者が本当にいいたいのはこんなお金の問題ではない。福島氏は「国家によるセーフティーネット」をいうが、それはそもそもどういうものか、ということである。結論をいえば、それは高齢者の世代を若者世代が支えるということで、突き詰めていえば「親世代」を「子世代」が支えるというシステムに他ならない。個人のレベルで、子が自分の親を直接支えるというシステムではないが、マクロ的には、その子が親を支えるという家族の機能を、国家レベルの「世代間システム」が代替するというシステムである。まさに国家的レベルでの「家族システム」だ。

 しかし、問題はこのシステムがもつ逆説である。このシステムがうまくいけばいくほど人々はそれに頼って自分の子をもとうとしなくなり、逆に少子化が進むという現実である。それが今日の現状でもあるが、この傾向がこれからも正されることがないとすれば、恐らくわが国のこの「世代間システム」は日ならずして破綻するに違いない。それをどう考えるかということなのである。

 最近の世論調査によれば、「結婚しても必ずしも子供をもつ必要はない」と考える国民は二十歳代では六三%に上るとする数字が出ている。また、別の国際世論調査だが、「どんなことをしてでも親を養いますか」という問いに対し、「養う」と答えた若者の比率は英66%、米63%、仏50%に対し、韓35%、日本28%という数字が公表されている。これを見ると、むしろ英米仏の方が韓日より「古典的な発想」が健在であるようだ。

 家族が崩壊状況にあるという認識は筆者も否定しない。しかし、だからもう家族ではダメなのだというのと、だからこそ家族の復権を、というのとでは千里の開きがある。いかに困難でも、家族を復権させるべきだと考えれば、そこにはそのためにやるべきことが山ほど出てくる。しかし、もう家族ではないといってしまえば、先に紹介した国民の意識は更に惨憺たるものになっていくに違いない。どうしてそれで良いのだろうか。

 朝日なども「(戦後)目指したのは……伸びやかに個が発揮される社会。……時計の針を逆回しにはできない」と宣伝これ努めている。こんな社論に歩調を合わせて、一体どうするのだ。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成23年3月号〉