ここまで来たら、根本から憲法を議論しよう

 今年の5月3日は、かつてなく様々な憲法改正提案でにぎわう憲法記念日となった。自民党、みんなの党、たちあがれ日本が具体的な改正案や方向性を提起したのはもとより、例えば憲法改正条項の改正、首相公選制や一院制など統治機構の改革、あるいは緊急事態条項の新設……等々が具体的論点として話題となったからだ。

 しかし、筆者はそんな中、ここまできたなら、今度はむしろ腰を据えて、根本的な憲法思想そのものに関わる議論を始めてもいいのではないか、との思いを禁じ得なかった。というのも、これまではともかく憲法を変えてみること、憲法の壁にまず風穴を開けることが先だと考えてきたが、その可能性が微かではあれ出てきたとすれば、今度は更にその先に眼を向けてみることも必要ではないか、と思えてならなかったからだ。

 筆者の脳裏にあったのは、憲法そのものが拠って立つ思想、という問題である。あえて単純化させてもらえば、わが憲法の、国家も歴史・伝統も共同体も一切排除した「個人」という思想を、根本から乗りこえる国家観・人間観・家族観を、今こそ新たな議論の俎上に載せてみてもよいのではないか、ということだ。むろん、そんな議論が政治の場で簡単に通用するとは筆者も思っていない。しかし、現実的な憲法改正案と同時に、そろそろこういう原理的なテーマも、せめて議論の対象くらいにはしてもいいのではないか。

 憲法第13条は「すべて国民は個人として尊重される」とする。しかし、この「個人」とは何なのだろうか。この世の中には生まれた国とも、背負っている歴史や文化とも、祖先や親からの生命の連続とも一切関係のない「個人」などというものは存在しない。人間はむしろそのような生命の連続の中で、国家の一員として、その歴史や文化の中で、人間となっていくからだ。にもかかわらず、憲法はあえてそうしたものとの関係を排除した「個人」なるものを夢想し、それを最も価値が高く、根源的な存在だと位置づけている。

 こうした「個人」という思想が、日本人本来の国家観・人間観・家族観を破壊し、あるいは成り立ち難くしてきたことは改めていうまでもない。国家はこの「個人」の福利実現のためにあるものであり、人間にとってこの「個人」の人権は至上のものであり、家族とはこの「個人」の人権を基礎に初めて形づくられるものだ、とこの「個人」という思想はわれわれ日本人を信じさせてきたからだ。

 その結果が、筆者も度々指摘してきた「国家なき日本」の現実であり、今日の日本社会の利己主義的風潮と倫理道徳的な崩れ、あるいは精神空洞化であり、また家族崩壊や少子化、更にいえば「無縁社会化」という現実でもあった。

 「とにかく『縁』や『しがらみ』という面倒なものを断ち切ろうとしたのが戦後日本だったのではないでしょうか。戦後の民主主義にせよ、個人主義にせよ、都市化にせよ……『近代市民社会』なるもののしごく当然の結果が『無縁社会』なのではないでしょうか」

 佐伯啓思氏はこのように述べるが、要は「無縁社会」こそが、この「個人」という思想の行き着いた結果だったというのである。むろん、これはあくまでも比喩であり、氏がいうようにそれだけが結果であるという話ではない。いわば誰もが国家や社会や家族といった拠り所、心を充足できるものをもたない社会がこの日本でもある、という話だともいえる。

 とすれば、果たしてこの思想にはどのような思想が対置されるべきなのか。むろん、筆者の結論は「国家と共同体」ということであるが、いずれにしても、それはこの憲法の思考の枠組みを根本的に超えたところで、初めて可能となる議論だと筆者は考えている。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成24年6月号〉