日本国憲法の歴史的経緯と台湾憲法

◆はじめに

 現行の日本国憲法と中華民国憲法は、いわば「外来政権」により押し付けられた「非自主的憲法」という性格において共通性をもつ。日本国憲法は対日占領に当たった連合軍総司令部(GHQ)により、また台湾の場合は蒋介石・中華民国政権の台湾移転により、一方的に受容を強制され、あるいは施行せしめられたものであったからである。

 ここではそうした制定のあり方の共通性に着眼した上で、日台両国民自らの手による、かかる「非自主的憲法」を脱した「新たな憲法」のあり方を考えてみたい。

 以下、そのために、とりわけ日本国憲法の成立の過程における問題点、つまりその「外来政権により押し付けられた憲法」という非自主的性格が、その後の日本の政界・学界・言論界でどのように受け止められ、議論を惹起することになったか、そしてそれは今日なおどのような議論を呼んでいるかを明らかにし、今日の両国における新憲法制定が抱える問題状況と課題を考える上での参考にしたい。

 

◆日本国憲法の成立に関わる諸問題

 現行日本国憲法の成立は1946年11月3日である(施行は翌年5月3日)。この憲法の公布に当たり、憲法は以下のような天皇の言葉をその冒頭に掲げた。
 
 「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」

 しかしながら、日本国憲法の成立には、この天皇の「深くよろこび」という言葉にもかかわらず、その合法性そのものを疑わしめる幾つかの深刻な問題が伏在していた。

 まず何よりの問題は、この憲法のそもそもの草案が実は日本人が作成したものではなかったということである。日本国憲法の草案は総司令部民政局の将校たち21人が、マッカーサー最高司令官が示した「3原則」なるものをベースに約一週間で起草し、それを日本政府に強権をもって押しつけたもの――というのが真相であったからだ。

 むろん、そうした経緯は占領終了後、ようやく国民の知るところとなるのだが、それは一国の憲法のあり方としてはどう考えても異常なものであった。それゆえ、果たしてそれを「日本国民が作った憲法」と呼ぶことは正しいのか。それはむしろ「占領憲法」、あるいは「マッカーサー憲法」と呼ばれるべきものではないのか、といった疑問の声が起こるのはきわめて自然の成り行きであった(注)。

(注)この憲法強要の事実関係はその後徐々に明らかになり、今日では様々なドキュメント番組のようなものも作られている。

 むろん、総司令部はそれを、先の天皇のお言葉にもあるように、日本政府自らが作成した案――それも明治憲法73条に基づく改正案として帝国議会(明治憲法下ではそう呼ばれていた)に提案し、そこで審議・成立せしめるよう求めた。占領軍が強権をもって憲法を押しつけたと内外から批判されることを恐れ、日本人自らの手によって、その成立に関わる作業がなされたかのように仮構しようとしたのである。その結果、帝国議会はその改正案を貴・衆両院で審議し、承認し、かくて明治憲法の「改正」としての日本国憲法は成立することとなった。

 しかし、ここにも問題があった。この憲法が明治憲法の改正案という形で議会に提起されたことは既に述べたが、当の明治憲法73条には「将来此の憲法の条項を改正する時は」とあり、そうした「条項」の範囲を超えた「全面的改正案」――それも明治憲法とは性格の根本的に異なる「新憲法」とでも呼ぶべきものを――この73条に関わる「改正」として捉えることは想定していなかったからである。それはどう考えても憲法解釈上不可能なのではないか、という疑問が当時から出されることになった。

 それとともに、更に問題となったのは、これが行われた時期であった。当時、日本はマッカーサー最高司令官指揮下の連合軍による軍事占領下に置かれていたが、かかる国家にとって例外的ともいえる状況の下での憲法の成立は、所謂「非常時の憲法改正」という問題(いくつかの国ではそれを憲法で明文をもって禁じていた)をもつものとして、果たして正当たり得るかという疑問があったのである。

 というのも、当時、天皇及び日本国政府の「国家統治の権限」は「連合軍最高司令官の制限の下に置かれるもの」(ポツダム宣言受諾に関わるバーンズ回答)とされており、日本はそもそも独立国としての意志を自由に表明しうる立場にはなかったからである。憲法の制定はいってみれば「主権」の行使であり、だとすればその主権が「制限」されている中でのそれは合法といえるのか、という疑問が提起されることになったのだ。

 

◆占領軍の強権による憲法の制定

 むろん、占領軍の権力は絶対であった。このような根本的問題があったとしても、それは彼らの政策遂行を何ら妨げるものではあり得なかった。彼らは占領軍に与えられた強大な権力の下、それを日本政府の手をもってやらせるという形で現実化したのである。

 当然のことながら、そこには占領軍としての表裏様々な強権の発動があったことはいうまでもない。例えば、民政局作成の憲法草案受け入れに抵抗する日本政府に対し、それでは「天皇の身柄」は保障し得ないと、極東軍事裁判への訴追の可能性を秘かにちらつかせつつ脅迫したこと、草案を日本政府に手交した後も、何とかそれを日本的なものに修正せんとした日本政府の努力に執拗に干渉し、改正案を結果的にはほとんど民政局案そのものの形に戻してしまったこと、更に帝国議会での審議に当たっても終始それを背後から監視し、コントロールしようとしたこと……等々、そこには一貫した占領軍権力の行使があったといえるのである。

 しかし、やはり一番大きかったのは「言論の統制」であった。憲法制定が問題になる以前から、占領軍は検閲を通した言論統制に全力を挙げ、占領政策に反するような言論を徹底的に押さえ込むとともに、既存のマスコミをそのアメとムチをもって彼らの御用機関と化して行ったからである。その結果、占領軍が日本政府に憲法案を強要する決意を固めたといわれる1946年1月、日本政府が検討していた自主案たる松本案が毎日新聞のスッパ抜きに会うや、かかるマスコミはまさに占領軍の意向を代弁でもするかのように、囂々たる批判をこの松本案に浴びせることになっていったのである。国民の中の松本案支持の声を、ここで完全に沈黙せしめたといえる。

 と同時に、その後強要された民政局案に基づく日本国政府案が公表されるや、今度は逆にマスコミ挙げてそれを支持する言論を盛り上げさせた。当時の資料によれば、国民は支持というより、むしろ余りに突拍子もない政府案に驚き、むしろ「奇異なる感情」と「好奇心」を抱かされていたというのが実情だったにもかかわらず(外務省の内部文書)、彼らはほとんど全ての日本の世論がこれを歓迎したという話にしてしまったのだ。

 それだけではない。その一方では日本政府案の不自然さ(つまり、果たしてこれは日本人が作った案なのかという当然の疑問)に言及する一切の言論を禁圧し、「これは実はアメリカ製なのではないか」というがごとき指摘が表面に出てくるのを徹底的に監視し、ブロックしたのである。その結果、国民はこの憲法にいくばくかの不審や疑問は感じつつも、その出生の秘密を占領終了時まで正確に知らされることはなかった。

 事情の全くわからない国民は――それも当時は「憲法よりメシ」というのが大多数の国民感情であったが――かくて大した反発も問題意識もなしに、この「奇異」な憲法を受け入れるという結果になって行ったといえる。

 とはいえ、だからといってこの憲法の根本的な問題が解消されたわけでもなかった。以上に述べたごとき、民政局作成の憲法草案を、総司令部がある種の脅迫と強圧をもって日本政府に受け入れさせた、という事実はやはり重大で、それは当時占領軍の行動を規定していた国際法に違反する行為であるとの指摘も厳然として存在していたからである。

 「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は絶対的の支障なきかぎり、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序および生活を回復獲得するため施し得べき一切の手段をつくすべし」

 つまり、ハーグ規約第43条はこのように規定していたのである。

 

◆憲法の押しつけを擁護する議論

 さて、このような憲法であったがゆえに、占領終了後、この憲法の出生に関わる秘密が明らかにされるや、この憲法は正当な憲法ではあり得ないとする議論が澎湃として起こった。つまり、この憲法の成立には様々な「瑕疵」があり、とすればこの憲法は法的に無効だというのである。かくて、かかる憲法は即刻廃棄され、国民自らの手による日本人の憲法――自主憲法が作られるべきだ、との声が巻き起こった。

 しかし、こうした憲法改正・自主憲法制定の声は高まったものの、それに抵抗し、逆に「憲法を守れ」と叫ぶ声も、その頃はやはり高まりを見せ始めていた。総司令部は政府に憲法を強要するとともに、それが成立するや、今度はそれが国民の多数によって受け入れられ、是認されるよう、日本政府をも巻き込みつつ、世論工作に全力を上げていたからである。例えば、「憲法普及会」なる官製の団体がつくられ、『新しい憲法 明るい生活』なる小冊子が刊行されるというようなことが行われた。その数何と2000万部――それも占領下の深刻な紙不足の中で印刷が強行されたという。

 そうした中で、「御用学者」たちの「御用理論」も作り上げられていった。例えば、宮沢俊義東京大学教授はその代表的存在で、政府の松本委員会の中心メンバーとして「明治憲法は民主的な憲法で改正の必要すら無し」と唱えていたその舌の根も乾かぬ1年後、今度は「8・15革命説」なる新説を唱え始め、日本国憲法の正当性を主張することになっていったからである。曰く――8月15日のポツダム宣言受諾によって日本には法的な革命が起こり、それまでの神権天皇制は終わりを告げ、国民主権の日本になった。日本国憲法はそうした法的現実を受けて成立したもので、形の上では明治憲法の改正という形式をとってはいても、法的にはこれを革命による新たな憲法の誕生と捉えるのが正しい――というのである。そう考えれば、明治憲法の改正限界は問題とならず、日本国憲法の成立には何ら問題はないということになるのであった。

 こうした護教理論はとりわけ知識人の中に広まりを見せたが、そうした中で更に決定的な影響をもつことになったのが、筆者が「GHQ物語」と呼ぶ、総司令部民政局による憲法押し付け弁明の理論の公開であった。彼らは1948年、米国政府に憲法制定に関する公式の報告書を送るのだが(『日本の政治的再編成』)、そこで日本に国際法に反して憲法を強要した――との内外からの批判を受けるのを避けるべく、それは憲法の強要ではなく日本政府への協力であり指導であったのだ、との自己正当化の論を展開したのである。

 ところが、それが今度は日本の学者によって研究者に紹介され、これこそが憲法制定の陰に隠されていた真相だった――との話になっていった。それまで憲法草案押しつけの事実は完全に秘匿され、わずかに推測的に語られるのみであったから、「これが完全なる真相である」との、この「民政局発」の解説の効果は実に大きかった。

 いうまでもなく、それはあくまでも彼らの行為を弁明し、正当化するための手前勝手な「物語」でしかなかった。とはいえ、それは先の宮沢理論と同じく、日本国憲法の成立を正当化する中心的な護教理論の役割を担うことになっていったのである。

 

◆占領軍が作り上げた憲法正当化の図式

 ところで、この民政局報告書で強調されたのは、以下のようなことであった。

①明治憲法下の日本は、自由や権利の全くない非民主的専制国家であった。

②憲法改正は占領政策の中心的課題であり、総司令部は日本政府にかかる日本を改革する憲法の即時改正こそ、最も重要な課題であることを数回にわたって示した。

③そうした経緯を踏まえ、日本政府は松本案なる改正案をつくり、総司令部に提出することになったが、それは最も保守的な民間草案より更にずっと遅れたものであった。

④それを知った総司令部は、この保守的な松本案に換え、民政局自らが作った憲法草案を用意し、それを日本政府に直接示すという方針をとることになった。

⑤民政局は2月13日、民政局作成の憲法草案を日本政府代表に示し、これを強要するものではないが、改正案作成のための指針としてこれを用いられることを望む、と勧告した。

⑥日本政府はこの草案を受け入れた後も、それを骨抜きにすべく種々策動したが、結局は総司令部によって受諾されないという現実を知るや、その抵抗を諦めた。

⑦帝国議会では圧倒的多数の議員の積極的賛成により、この改正案は採択された。

⑧この憲法の内容は自由と民主主義と平和の原理に立脚するもので、それは日本国民が永年心から待ち望んでいたものでもあった。それゆえ、それは日本国民による「非常な歓呼」をもって迎えられることになった。

 紙数の関係上、ここで指摘されているポイントの一つひとつに反論することはできないものの、これは余りにも手前勝手な一方的論理という他なかった。

 これによれば、明治憲法は自由や権利の観念の片鱗すらない非民主的憲法であり、松本案もまたどうにもならない硬直した反動的な案とされた。また、民政局の介入により作られることになった新憲法は、国民が心の底から求めていたものであり、これにより日本国は晴れて世界の民主国家の仲間入りをすることになった、という結構きわまりない「物語」でもあった。まさに「鬼ヶ島」のような戦前日本と、まさに「理想」そのものの戦後憲法下の日本――といった単純対比である。だからこそ、民政局の憲法押し付けは正当であり、理由のあるものだったという話なのである。

 これはいってみれば、日本は憲法を押し付けられただけに留まらず、その不法を許容し正当化する理論、つまりGHQの「憲法物語」までも押し付けられることになった、ということでもあっただろう。

 かかる理論は、急速に知識人を始めとする日本国民の憲法認識を支配するようになっていった。つまり、憲法の草案は日本国民が書いたものでないことは残念ながら事実としても、そうならざるを得なかったのは当時の日本政府の「反動性」ゆえであり、われわれはむしろ占領軍の介入によって、かかる世界に比類のない先進的な憲法を得ることができたのだ、と教師たちは一斉に学校で唱和することになっていったのだ。また、だからこそこれから憲法を変えようなどと考えるのは許し難いことなのだ、と学生たちは教えられることにもなっていったといえる。まさに憲法は「生まれ」より「内容」、そして「育ち」が大切だとされることになっていったのだ。

 

◆その後の「憲法論」が辿った道

 さて、こうした欺瞞的な議論によって日本国憲法は国民に受け入れられていった。日本国憲法の正当性を問題にする議論は消えたわけではないにしても、かかる正当化の議論は年を経るごとに影響力を増し、また憲法が「政治の現実」となり始めたという事実をも加えて、憲法無効・自主憲法制定といった議論の影響力を排除していったのである。

 ところで、そうした「護憲論」優勢への決定的な転機となったのは、池田内閣時代に報告書(1964年)が出された「政府憲法調査会」での議論であった。この調査会で一番エネルギーが割かれたのは「日本国憲法制定の由来」の解明であったが、にもかかわらず、ここでは先にも述べたような日本国憲法の成立を正当だとする陣営からの執拗かつ組織的な抵抗により、結果的には日本国憲法の成立そのものを無効だとする議論、あるいはそれは「押し付けられた憲法」であるがゆえに、それを超えた日本人による新たな自主憲法の制定が必要なのだ――とする議論は大勢となることができなかったのである。

 以後、憲法に関する議論の主流は、時の政権の経済至上路線と軌を一にし、「体制内化」していくことになった。憲法の成立そのものの是非、あるいはそれが拠って立つ「理念」の是非――といった原理的な問題をむしろ迂回し、例えば憲法第九条を中心とする現実的な運用面での様々な問題の処理――というような、いわば技術的問題へとシフトすることになったのである。もはや憲法全体をトータルに問題とするような原理的な議論は行われることはなく、この憲法の正当性をひとまず認めた上で各条文、あるいは制度に対する運用レベルの問題を問う、という議論になっていかざるを得なかったのだ。

 そして、そうなったことの当然の帰結として、ならば厖大なエネルギーを使ってわざわざ憲法改正などという不経済なことはしなくとも、むしろ憲法の解釈を巧みに操作することによって、まずそれがめざす当面の目的を達した方が効率的ではないか、という憲法論が台頭することにもなっていった。憲法改正に要する政治的コストを計算するなら、むしろこうした対応の方が賢明でもある、という実利論である。世に「解釈改憲論」と称されることになった考え方であり、いわば「実利的憲法論」の行き着いた先でもあった。

 池田・佐藤内閣の時代から、まさについ先日までの約四十年間、日本政治の主流を占めてきたのがこの実利論だったといって過言ではない。歴代の内閣はまさにそう定められでもしたかのように、「私の内閣では憲法改正は全く考えておりません」と答弁しつつ、しかし実際には憲法解釈の幅を次々と拡大し、その時々の政治上・外交上の要求に巧に応えるという対応をとってきたのである。

 湾岸戦争後の自衛隊の海外派遣に際しての、その度毎の内閣法制局の新解釈(珍解釈?)の登場は、まさにそうした路線の「総結晶」でもあった。海外派兵と海外派遣の違い、武力行使と武器使用の違い、戦闘地域と非戦闘地域の区別、そして武力行使との「一体性」の理論……等々、その結果、もはや専門家ですら全容把握に苦労するような複雑な解釈体系が出来上がることになったのである。

 一方、そうした中で、日本国憲法を正当としてきた陣営内部にも変化が起こることとなった。日本国憲法の比類なき先進性をオウム返しに唱えるだけではもはやどうにもならない現実が、とりわけ冷戦終結後、顕わになり始めたからである。この憲法が想定していたような世界は全く幻想であったことが明らかとなり、またそれが全否定した戦前の日本社会なるものも、ようやく正当に見直され始めるという流れになっているからだ。

 戦前=悪、戦後=善、あるいは日本=悪、アジア近隣諸国=善といった図式は、今や化石化しつつある一部左翼勢力のみにしか通じない「昔話」となり、また日本だけが平和であればそれで良いという「一国平和主義」では、もはや対応のしようもない国際社会の現実が、われわれの前の現実となっているのである。

 となれば、憲法に対する議論も新たな段階に入らざるを得ない。

 

◆憲法論の新段階――そして日本の未来

 この「新たな段階」の開始をいつと見るかは議論のあるところだが、少なくとも2000年以来、日本の憲法論議は再び新たな局面に入り始めている、というのが筆者の認識である。先の民政局報告書の論旨そのものに、日本国憲法を世界に冠たる平和憲法・民主憲法としてきた人々の議論が、最近急速に影響力を失いつつあるからである。

 むしろ、その一方、この憲法の下、半世紀かけて作り上げられてきた様々な国家的現実が心ある人々をして、この現実の見直し――いわば「国家なき戦後日本」ともいうべき国家的有り様のトータルな見直しへと駆り立て始めているともいえる。果たして日本国家はこのままで良いのか、もっと根本に立ち帰った国家としての自己認識と改革が必要なのではないか――等々、かかる原理的ともいうべき問いかけが、今や政治の主題となり始めているのである。そうした中で、しばらくの間、問い直されることすらなくなっていた憲法成立の是非に関わる議論も、再び頭をもたげ始めているともいえる。

 むろん、それはもはや日本国憲法をそのまま無効と断ずるような性急な議論ではない。しかし、今日の日本の外交のあり方、政治のあり方、あるいは社会・教育のあり方……等々を根本から問い直すならば、そこにどうしても憲法の出生の特異性からくる「負の影響」を見ないわけにはいかない、とする議論なのである。とりわけ、戦後日本の各分野に見られる「思想的バックボーンの喪失」という現実は、まさにそれを解体せしめんとして作られたこの憲法の影響そのものでもある、といえるからだ。かくて今一度、この憲法成立の原点に立ち戻った憲法の再検討が必要だという議論になっているのである。

 当然のことながら、これには根強い反対論もある。新たな現実を踏まえた憲法の見直しは必要としても、それは未来に向けての「前向きの議論」であるべきであり、今なお過ぎ去った憲法成立の問題にこだわり、それを問題にしようとする憲法論は全くの「後ろ向きの議論」でしかない、とかかる論者たちはいうからである。とはいえ、未来に向かおうとすればこそ、今日本が立っている現状、そしてそのよって来る根源であるところの「戦後日本の出発点」が厳しく問い直されねばならないのではなかろうか。

 こうした中で、今われわれが着目するのは、政権党たる自由民主党が進めつつある新憲法草案の作成作業である。同党は来年秋、立党50年を迎えるが、それまでにこの草案をまとめるべく、今精力的に意見とりまとめに取り組み中だからである。

 同党は50年前、まさにそれまでの占領体制を超え、「独立日本の政治」を打ち立てるべく、「自主憲法制定」を綱領に掲げ、立党された。そして今、この50年という半世紀の時を超え、この「綱領の精神」を再び甦生せしめようとしているのである。それをリードするのは自民党の若きリーダー、安倍晋三・同党前幹事長であり、彼は50年前の同党初代幹事長・岸信介の孫でもある。つまり、結党以来、自主憲法を求め紆余曲折を続けてきたその志が、今2世代の時を超え、花咲かんとしているという図でもあろう。

 むろん、政治というものは一直線に進むものではない。そうした草案の提起に至るまでにも、恐らく更なる紆余曲折もあろう。しかし、ここでいいたいのは、その議論のベースは今や明らかに変わりつつあり、国家の現実を正面から見据えたタブーなきそれへと大きく変わりつつあるということである。日本の新時代は、まさにそうした中から確実に切り拓かれていくと思われるのである。

 

◆おわりに

 日本の新憲法制定運動と台湾のそれとの間には、本質的な違いもあるにせよ、共通点も多いように思われる。例えば、新憲法を求めることに対するタブー意識、また現憲法を維持しようとする勢力からの激しい反発と反作用、そしてマスコミや教育の中に深く組み込まれてきた「体制維持」のための各種の神話……等々、それが作られ維持されてきたシステムの内情・仕組みをも含め、筆者には比較の興味は尽きない。

 また、憲法を変えるに当たっての方法論の比較、つまり現行の憲法を前提とした「部分改正」なのか、全く新たな「新憲法の制定」なのか、あるいはそのための法的・制度的理論はどうあるべきか、加えてそうした動きに対する近隣諸国(とりわけ中国)からの反応をどう考えるべきか……等々、こういった問題もまた筆者にとっては逸せられない興味の対象なのである。こうした問題を更に掘り下げ、検討し、徹底的に議論して見るべく、筆者はその材料としてのいくつかの材料を提供してみた次第である。

 とはいえ、やはり最も重大なのは「新憲法の精神」という問題であろう。日台両国は果たしてどのような精神の下、これから新しい時代を切り拓こうとしているのか、この肝心な問題が問われねばならないと思われるからだ。

 筆者はこれについては、要は日本は「日本」であるということの意味を、台湾は「台湾」とならなければならないことの必然性、及びその意味を明らかにすることだと思っている。日本はアメリカの「一州」ではないわけだし、台湾はむろん「中国の一部」に留まるものでもない。そのことの積極的意味を問うてみるべきなのである。ただこれについては、いずれ機会を見て、改めて識者の考えを聞き、自らも考えてみたいと思う。

 いずれにしても、かかる問題も含め、これから両国の関係者による情報と意見の交換が更になされつつ、それがお互いに影響を与え合い、相乗効果を呼び、一日も早い新憲法の実現の日のくることを願わずにはおられない。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

※本稿は、2004年11月27日~28日、台北で開催された国際憲法シンポジウム(李登輝前台湾総統が主宰するシンクタンク「群策会」が主催)での発表原稿です。