「戦後教育」はこうして始まった 教育基本法制定と教育勅語廃止決議

「戦後教育」はこうして始まった

教育基本法制定と教育勅語廃止決議

日本人の意思に反し、占領軍の圧力で決められた基本路線。


 

◆占領期に改造された日本の教育

 若者の急速な学力低下や今や常態と化した観のある学級崩壊など、わが国の教育の惨状は目を覆うばかりである。昨年末、首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の最終報告が教育基本法の見直しを打ち出したのも、今や崩壊しかけている戦後教育を根本的に反省しようとする動きの一環だと言えよう。

 もちろん、一概に戦後教育といっても、さまざまな捉え方ができるだろう。しかし、その最大の特徴は、「個人の価値」を唯一最高の指導理念とみなしてきた点にあると言えるのではなかろうか。さしずめ、教育の目的を「人格の完成」とする教育基本法は、この戦後教育の特質を明瞭に示していると思われる。この点で、戦後教育の根本的な反省にとって、教育基本法の見直しが避けて通れないことは明らかだ。

 とはいえ、戦後教育の基本路線は、単に教育基本法によってのみ作られたのではない。言うまでもなくその大枠は、日本国家が主権を失い、言論の自由もなく、国民の多くが自国の文化伝統への自信を奪われた占領期における様々な出来事を通して作られた。考えてみれば、占領期という異常事態の中で、本来民族固有の文化に基づいて営まれるべき教育のあり方が根本的に改造されてしまったことは恐るべきことである。

 この明白な事実を踏まえれば、戦後教育を根本的に見直すための前提として、占領期に行われた教育改造の経緯を改めて客観的に振り返ってみることが必要だと思われる。

 本稿では、戦後教育の基本路線を作ったと思われる占領期の四つの重大な出来事に焦点を絞り、それらの経緯や意味を整理してみたい。

 

◆占領軍の教育管理指令の「狙い」

 昭和二十年八月三十日、マッカーサー連合国軍最高司令官が日本に到着した。以降、日本軍の武装解除を初めとする日本管理政策が次々と指示されるが、教育管理についても、十月以降、四つの「禁止的指令」が出されている。これらの指令は「四大教育指令」などとも呼ばれるが、戦後教育の基本路線を設定する上での第一段階に位置づけられるべき出来事だったと言える。

 では、この四大指令はいかなるものだったのか。ここでは、第一指令の「日本教育制度に対する管理政策」(十月二十二日)を簡単に見てみたい。

 これは、主に教育内容と教職追放に関する基本方針を示したものだが、まず教育内容については何よりも「軍国主義的及極端なる国家主義的イデオロギーの普及を禁止すること」が示された。また、教職追放に関しては「あらゆる職業軍人乃至軍国主義、極端なる国家主義の積極的なる鼓吹者及び占領政策に対して積極的に反対する人々は罷免せられるべき」とされた反面、「自由主義的或は反軍的言論乃至行動の為解職又は休職となり或は辞職を強要せられたる教師及び教育関係官公吏は其の資格を直に復活せしめらるべき」ことなどが命じられた。

 すなわち、「軍国主義や極端な国家主義」とともに、占領政策に対する批判分子を教育界から徹底排除する一方で、自由主義者や反軍的分子などを教育界に送り込むことが、総司令部(GHQ)の基本方針として表明されたと言えるだろう。

 その後、この第一指令の線に沿い、第二指令「教員及教育関係官の調査、除外、認可に関する件」(十月三十日)で教職追放が具体的に指示され、第三指令「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件」(十二月十五日)で、神道にかかわる教育、行事、保全・支援が厳禁される。さらに第四指令「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(十二月三十一日)では、これら三教科の授業中止などが指示された。

 ところで、この四大指令を発した総司令部の意図について、杉原誠四郎氏は「(今後の)本格的改革を容易にするために日本側に衝撃を与えるために行った」と指摘している。なぜ、日本側に「衝撃」を与える必要があったのか―。

 実は終戦直後から、戦後の事実上の初代文部大臣となった前田多門は、「新日本建設の教育方針」(九月十五日)と称する戦後の教育方針を自主的かつ積極的に示したが、そこには「今後の教育は益々国体の護持に務むると共に軍国的思想及施策を払拭し平和国家の建設を目途として謙虚反省」することが謳われていたのである。つまり、占領軍にとって、こうした「国体護持」の精神に基づく日本側の自主的な教育再建など到底容認できるものではなかったということである。

 いずれにせよ、この四大指令によって、占領軍は教育界を占領政策への賛同者・協力者で固め、以降の「本格的改革」のための下地を作ったと言えるだろう。

 

◆「征服者」としての米教育使節団

 四大指令による地ならし後の翌年三月、マッカーサーの要請により、ストッダード(ニューヨーク州教育長官)を団長とする二十七名の米国教育使節団が来日する。彼らは、約一カ月の滞在中、日本教育家委員会(南原繁委員長)の協力の下、日本の教育制度を調査し、「教育の民主化」のための勧告を盛り込んだ報告書をマッカーサーに提出する。この使節団の来日は、戦後教育の路線設定における第二段階に位置づけ得る出来事だったと言えよう。

 先の四大指令が、わが国の旧教育の解体指針とすれば、この報告書は、戦後教育の新たな「再建指針」と言ってよい。土持法一氏は日本側が「この報告書を戦後教育改革の基本的文書と高く評価して、それを『聖書』的な役割を果たすものとして意義づけた」と指摘するが、例えば現在の六・三制の義務教育も、この報告書の勧告に基づくものである。

 マッカーサーが教育使節団を招聘した意図については、一般的に「日本教育の民主化という大事業を遂行するために、GHQと日本側教育関係者に、積極的な助言を与える」ため(土持氏)などと解説されている。だが、その真の狙いは「総司令部の占領教育政策を追認させ、オーソライズすること」(杉原氏)にあったと見るのがむしろ自然だろう。

 また、この報告書の中身に関しても、未だに教育専門家の多くは使節団の「善意」を強調する。確かに、この報告書には例えば「我々は征服者の精神を持って来朝したのではなく、すべての人間には……測り知れない力がひそんでいることを確信する教育経験者として来朝した」などの実に「理想主義的」とも言うべき言葉が散りばめられている。そして具体的勧告の中にも、公選・独立の教育委員会を設けることや、六・三・三制単線型の学校系統に改めることの提案、あるいは九カ年を無償の義務教育とすることや、男女共学の採用をすすめるなど、ある意味で「画期的」とも言うべき提案が存在する。

 しかし他方、この報告書は、今後の日本の教育再建の方向は「個人」を出発点とするものでなければならないと述べ、民主主義の生活に適応した教育制度は、「個人の価値と尊厳」を認識し、「個人」のもつ力を最大限にのばすことが基本であることを繰り返し力説してもいる。

 ここで指摘したいのは、彼らの奨励する個人主義が、きわめて能率主義的・合理主義的な発想に基づくものであり、わが国の伝統をほとんど無視したものであったことである。

 例えば、彼らは「言語改革」に関して、漢字の全廃や国語の簡略化、ローマ字の採用を提唱したり、また「服従心を養成する」として修身を否定した。さらに、学校の儀式における教育勅語をはじめ勅語・勅諭の使用停止なども彼らは勧告しているが、こうした点に着目すれば、この報告書が「征服者の精神」と無縁であったとは決して思えない。

 「使節団報告書以前に、四大教育指令というレールが布かれており、使節団はその重要性を理解した上で、報告書を作成した」(鈴木英一氏)との指摘は、こうした報告書の性格を示唆するものと言えよう。

 にもかかわらず、この報告書をわが国の教育再建の「バイブル」と意義づけた当時の教育関係者らによって、「個人の価値」を高らかに謳ったこの報告書は「戦後教育の指導理念」(尾崎ムゲン氏)に祭り上げられることになったわけである。

 

◆「伝統」を排除された教育基本法

 米教育使節団の報告書とともに、戦後教育の「指導理念」とされてきたのが教育基本法であることは今更言うまでもない。昭和二十二年三月に公布された教育基本法は、「個人の尊厳」などの現行憲法の理念を謳った前文と「教育の目的」などを定めた十一の条文からなるが、この基本法の制定は戦後教育の大枠を固めた第三段階の出来事と言えよう。

 ここでは、教育基本法の制定経緯を振り返った上で、教育基本法の本質を考える上でのいくつかの基本事項を確認してみたい。

 まず、先の二つの出来事とは異なり、教育基本法の構想は日本側から発案されている。発案者はクリスチャンとしても知られる当時の田中耕太郎文部大臣であるが、昭和二十一年六月二十七日、帝国憲法改正案が審議された第九十回帝国議会で、基本法の構想は初めて表明された。

 すなわち、森戸辰男議員が「教権の確立」について、教育勅語は新日本を作っていく教育の根本原理としては不十分ではないかと指摘し、「新しき時代に処する教育の根本方針」の必要を問い質したのに対し、田中文相は「民主主義の時代になったからといって、教育勅語が意義を失ったとか、或は廃止せらるべきものだというような見解は、政府のとらざる所」と述べる一方で、「教育に関する根本法」の立案準備に着手していることを表明したのである。

 この教育基本法構想の表明を受け、その後、文部省が立案作業に当たり、九月二十一日に「教育の目的」を「真理の探究と人格の完成」と定めた要綱案が完成する(最終的に「真理の探究」は削除)。この要綱案は、教育刷新委員会で討議され、いくつかの修正の後、十二月二十七日、内閣総理大臣に建議されるに至る。

 一方、こうした日本側の審議と併行して、同年十一月から十二月にかけて、文部省と占領軍(CIE教育課)との間で週二回のペースで検討会議が行われている。この折衝の中で、前文にあった「伝統を尊重し」の文言が削除され、宗教教育についても大きな修正要求があったことは今や周知の事実であろう。

 まず「伝統を尊重し」についてみると、日本側の要綱案の前文には、「普遍的にして、しかも個性ゆたかな伝統を尊重して、しかも創造的な、文化をめざす教育」とあったが、米国側の強い要求により、現行の「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」に変えられた。「伝統を尊重し」の削除は、その後の閣議でも問題となり、当時の文部省審議課長は総司令部側と折衝するが、日本側の希望は拒否される。

 また、宗教教育に関しては、要綱案には「宗教的情操の涵養は、教育上これを重視しなければならない」とあった。日本人には極めて自然な規定と思われるが、米国側の要求で現行の「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」という、実に曖昧な文言に修正させられる。その背景には「宗教的情操」なる言葉の理解に対する日米間の超え難い宗教観のギャップがあったと言われている。

 ともかく、おおよそ以上のような経緯を経て、教育基本法は成立するのである。

 こうした経緯を踏まえて第一に確認したいのは、確かに教育基本法は日本側の発案と審議に基づいて成立したものではあるが、最終的に占領軍の介入により、日本の伝統や価値に関わる文言が排除された事実である。また、そもそも教育の目的を「人格の完成」と捉えた点に、基本法の発案者である田中文相個人のカトリック的世界観が色濃く反映していた事実も指摘したい。こうした事情により、教育基本法の精神は日本の文化伝統とは無縁の「無国籍的」なものとなったと言えるからである。もちろん、教育基本法は日本人が「自主的」に作ったとみなす教育学界の「通説」が虚構に過ぎないことも明らかだろう。

 第二に確認しておきたいのは、教育基本法の発案者の田中文相が、教育勅語と教育基本法とは矛盾しないと考えていた事実である。両者の関係に関するこうした理解は、教育基本法の立案や審議に関わった文部省や教育刷新委員会にも共通する態度であったと言える。教育刷新委員会は、CIE教育課の実質的な支配下にあり、そのメンバーの主流は自由主義的知識人であった。そうした人々でさえ、教育基本法と教育勅語は矛盾しないと考えていた事実は、きわめて重要だと思われる。

 一般的に、教育基本法の制定によってわが国の教育は「教育勅語から教育基本法へ歴史的な転換を遂げた」(鈴木氏)と指摘されてきた。しかし、教育基本法の制定経緯に関する前記の事実は、こうした「転換」が教育基本法によって「自動的」にもたらさせたわけではないことを物語っていると言えるからである。

 

◆葬られた教育勅語への「思い」

 これまで見てきた三つの段階を経て、「個人の価値」を指導理念とする戦後教育のレールはほぼ敷かれたと言える。だが、「個人の価値」が名実共に戦後教育の「唯一」の指導理念となるのは、昭和二十三年六月十九日、衆参両院での教育勅語の排除失効決議によると言わなければならない。つまり、この教育勅語の排除失効決議こそは、戦後教育の基本路線を固めるための「最終段階」にも当たる重大な出来事だったと思われる。

 というのも、先に確認したように、教育基本法の制定に当たった日本側の当事者は、教育基本法と教育勅語との両立を信じていたからである。こうした日本側の教育勅語擁護の態度は、教育基本法制定の過程で一貫して表明されているが、当時の状況を杉原氏は次のように説明する。

 「教育基本法案を審議した教育刷新委員会でもそのことは確認されているし、教育基本法を制定した帝国議会でも、そのために準備された『予想質問答弁書』で、教育勅語を『廃止する意思はない』と明記している。

 すなわち、法律としての教育基本法と、明治天皇の単なる言葉(勅語)としての教育勅語は、形の上でも矛盾するものでなく、内容上も矛盾するものではない、という前提で、教育基本法は制定された」

 一方、CIEは占領当初から教育勅語そのものには厳しい批判を有しつつも、教育勅語の廃止には、それが日本国民の反発を招き、占領支配を困難にするとの恐れから、きわめて慎重だったと言われている。

 ところが、田中文相の教育勅語擁護発言は米太平洋陸軍総司令部軍事諜報局の目にとまり、同局は参謀第二部に対し、教育勅語の廃止を訴える特別レポートを提出する。「『日本国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づる』主な策略の一つであった教育勅語は、占領の長期目的を達成しようとするならば廃止されねばならない」と同報告書は勧告した。

 そうした中で、昭和二十三年五月、ケーディス民政局次長は部下のウィリアムズに、国会で教育勅語の廃止決議を行うことの可能性を質し、ウィリアムズは衆議院の松本淳造文教委員長と参議院の田中耕太郎文教委員長を呼び、国会で教育勅語の廃止決議をするよう強硬に申し入れる。

 こうした占領軍民政局の「圧力」によって、六月十九日、衆参両院は教育勅語の排除・失効決議をそれぞれ行うに至る。これによって、教育勅語と教育基本法とが併存するとの当時の公的解釈は初めて変更を余儀なくされることとなり、同時に各地の学校から教育勅語の謄本が漏れなく回収されることともなるのである。かくして、わが国の教育は教育勅語という伝統的な指導理念を名実共に奪われ、「個人の価値」が唯一最高の指導理念の地位を得るのである。

 以上のような占領期の経緯を振り返るならば、戦後教育の基本路線が占領軍の一貫した圧力の中で、当時の日本人の意志を踏みにじりつつ作られてきたことは明らかだと思われる。今や末期的症状に陥っている戦後教育を本格的に見直すためには、こうした歴史的事実を、日本人としての曇りなき眼でしかと見据えることが必要なのではなかろうか。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

◎本稿をまとめるに当たっては、主に以下の諸文献を参考にさせていただきました。
・杉原誠四郎「教育基本法の制定過程と意義」
・高橋史朗「教育勅語の廃止過程」
・鈴木英一『日本占領と教育改革』
・明星大学戦後教育史研究センター編『戦後教育改革通史』

〈『明日への選択』平成13年6月号〉