ジェンダーフリー教育の恐るべき「弊害」

ジェンダーフリー教育の恐るべき「弊害」

「男らしさ・女らしさではなく、人間らしさ」は空理空論

ジェンダーフリーは子供の健全な人格を破壊し、結婚離れを加速させる。そうなれば、家族が崩壊するだけでなく、社会の崩壊にも直結する。


 

 「男らしさ」や「女らしさ」など、男女の性差を否定・解消しようとするジェンダーフリー教育が全国各地の教育現場に浸透しつつある。例えばピカピカのランドセルを背負って今春入学した一年生たちは、「男の子が黒いランドセル、女の子が赤いランドセルというのは親や社会が勝手に決めただけ」と言われ、ランドセルの色を男女で区別するのは間違いだと教えられる。また高学年の子供たちは、教科書やテレビ番組などの登場人物について、「男子がズボンをはき、女子がスカートなのはジェンダー・バイアス(性別による偏り)があるためだ」などと教え込まれ、そうした「バイアス」に敏感になるよう要求されたりする。

 このように、ジェンダーフリー教育とは、「区別は差別」という観点から、男女の一切の区別を許さない極めて偏狭な人間を作るための洗脳教育なのである。そればかりか、その推進者たちが理想とするのは雌雄同体のカタツムリであるともいわれている。つまり、日本の子供たちを男でも女でもない雌雄同体の「無性人間」に改造してしまおうというのが、ジェンダーフリー教育に秘められた目的ともいえるのだ。

 これを笑い話というなかれ。現に福岡のある高校では、男子と女子が同じ教室で日常的に平然と着替えをするという驚くべき光景が見られるのだ。その多くは小学生の頃からジェンダーフリー教育を受けてきた生徒たちであるという。つまり、異性に対する思春期特有の恥じらいの感覚のなくなった子供たちがすでに出現しているわけだ。こうして本来の正常な感覚を失ってしまえば、精神的な意味での「無性人間」まではあと一歩といってもよい。

 こうした現実を見ても、ジェンダーフリー教育という、平成の日本に現れた愚行の弊害は余りにも明らかだろう。とはいえ、ジェンダーフリー教育を憂慮する人々の間でも、それが子供や社会に具体的に及ぼすであろう弊害については、案外知られていないように見うけられる。

 そこで、性差の否定・解消をめざすジェンダーフリー教育の弊害について、かねてこの問題を論じてこられた林道義東京女子大学教授の所論を中心に整理してみたい。

 

◆破壊される子供の人格

 ジェンダーフリー教育の最大の弊害は、何と言っても子供たちの人格形成に破壊的な影響を及ぼすことである。自我が形成される幼少期から思春期にかけて、男女の区別をしないとアイデンティティーが健全に作られず、場合によっては性同一性障害や同性愛などに陥ってしまう危険が、心理学者などの専門家によって指摘されている。以下、林氏の見解に耳を傾けてみたい。

 まず、林氏はアイデンティティーとは何かについて、「自分が自分らしいと思えばよい」というような簡単なものではなく、いくつもの「帰属感」から成り立つ複雑なものであると述べる。「たとえば、家族の一員だという帰属感。また自分は男なのか女なのか、どちらなのかという帰属感。そのほかにも日本人という帰属感。故郷や学校や会社への帰属感など、多くの帰属感の累積によってアイデンティティーが形成される」という。つまりアイデンティティーとは、「同心円的な層をなす帰属感の集まり」であるというのだ。

 中でも、特に男か女かという性別についての帰属感は「アイデンティティーの基礎」であり、大変重要だと林氏は強調する。すなわち、三歳頃から思春期までに自分が男であるか女であるかを「意識的に確信」し、「性別に見合った行動基準」が確立されていることが是非とも必要だというのである。言うまでもなく、こうした心理学上の要請の正しく正反対をやろうとするのがジェンダーフリー教育に他ならない。

 もし、自分の性別に対する確信が揺らいで定まらないと、性同一性障害に陥ったり、自我そのものが健全に形成されない恐れが出てくるという。そればかりか、さらに次のような弊害が生ずる危険があるともいう。

 「価値観や考え方の面で自分に自信が持てず、無気力や閉じこもりの原因になりかねない。さらに、異性との関係がうまく作れないとか、……同性愛に傾くとか、要するに生物として子孫を残すために必要な行動に支障が出るおそれがある。予想される障害は、心理面から本能行動まで多岐にわたり、深刻である」

 こうした心理学上の根拠から、林氏はジェンダーフリー教育に対してこう警鐘を鳴らすのだ。「このままジェンダーフリー教育が広まると、五年後十年後には青少年の心の病が急増する恐れがある。……(ジェンダーフリー教育は)愚かさを通り越して、子供たちの健全な心の発達を阻害する犯罪と言うべきである」と(産経新聞)。

 ジェンダーフリー教育の推進者たちは、「男らしさ」や「女らしさ」などよりも、大切なのは「自分らしさ」であり「人間らしさ」であると主張する。しかし先のような林氏の見解は、こうしたフェミニストたちの主張がいかに危険きわまりない空理空論に過ぎないかを教えているといえる。結局、性差否定の教育によっては「自分らしさ」は確立できないし、そればかりか「心の病」に陥ってしまい、「人間らしさ」を失ってしまうことにもなりかねないからだ。

 ちなみに氏によれば、特にこうした弊害は女子よりも男子の方が大きくなる危険があるという。「心理的に去勢されてしまい、男性の本能行動にとって必要な積極性を失ってしまう者が出てくる可能性がある。 単に本能行動ができなくなるだけでなく、男子が男らしさに欠けると、男性としてのアイデンティティーを明確に持てなくなり、自信喪失、無気力、現実逃避などの弊害が出る」というのである。

 いずれにせよ、心理学の専門家がジェンダーフリー教育の弊害として、性同一性障害や同性愛に陥る危険性まで挙げ、子供たち、とりわけ男子の「心の病」が急増することを懸念している事実は決して看過できるものではない。

 

◆母性と父性のさらなる解体

 ジェンダーフリー教育を受けた子供たちは、思春期における人格形成が歪められてしまう恐れがあるだけではない。さらに、母性や父性がはなはだしく欠けた大人に成長してしまう危険もある。

 言うまでもなく母性とは、子供を産み・育てる過程で働く受容的な優しい心の働きであり、わが子を可愛いと感じ、慈しみ・養い・育てる母親の保育行動として主に現われる。それに対して父性とは、妻や子を守り、子供を社会に適合できる人間に育てるために必要な倫理的な心の働きであり、家族をまとめ、わが子に善悪の判断力・秩序感覚・社会のルールなどを身につけさせる父親の役割として主に現れる。

 現代の日本の社会で、このような母性や父性がすでに大きく崩れつつあることは周知の通りである。例えばここ十数年、子供を愛せず憎らしいと感じる母親、さらに子供を虐待する母親まで急速に増えている。一方、父性のない「友達のような父親」が増えた結果、秩序感覚のない子供が増加し、今日の学級崩壊は引き起こされたと指摘されてもいる。ジェンダーフリー教育は、こうした母性や父性の解体現象をますます決定的なものとしてしまう危険があるわけだ。

 実際、最近の大学などの「女性学」の講座では、「母性は社会的・文化的に作られたもので、高々百年の歴史しかない」などといった母性本能を真っ向から否定しようとする洗脳が「学問」に名を借りてなされている。また、母性本能を否定する「母性神話」という言葉はマスコミなどを通して日常的に流布されている。ジェンダーフリー教育によって、母性解体がさらに促進されてしまうことは確実だといえよう。
こうした懸念に対しては、逆に「母性が本能なら、子どもを産んだら必ず出て来るはずだし、そんなに簡単に壊れるはずがない」といった疑問を抱かれる方がいるかもしれない。しかし、決してそうではない。

 例えば林氏は、母性は本能ではあるが、母性本能というものが本来極めてデリケートな性質のものであることをこう強調する。「本能というものは、発現するための条件がいるのであり(専門用語ではリリーサーと呼ぶ)、また発現を妨げる要因が働かないことが必要条件になる。人間の母性本能は非常に微妙であって壊れやすく、夫との不和とか、『社会から取り残される』というあせりなど、ちょっとしたきっかけで破壊されてしまうのである」と。つまり、「本能なら必ず出て来るはず」という考えは根本的に間違っており、「母性本能は微妙で壊れやすい」ことを理解しなければならないというのである。

 とりわけ注目されるのは、最近激増している母性が壊れた母親のケースとして、「母親が母性本能と敵対するようなコンプレックスやイデオロギーを持っているために、自ら母性を抑圧したり、母性を傷つけているケース」が指摘されていることである(『母性の復権』)。例えば、外で働くことにしか価値を認めない「働け」イデオロギーは母性本能にとって有害であるという。そうであれば当然、優しさや受容性といった女性の美徳を全面的に否定しようとするジェンダーフリー教育が、母性にとって極めて有害であり、母性本能を徹底的に破壊してしまう恐れがあることは明らかだと思われる。

 一方、ジェンダーフリー教育が父性のさらなる解体を促進することも間違いない。

 そもそも「父」とはいかなるものかについて、林氏はこう述べる。「『父』は楽で自然ではいけない。そもそも父とは無理をしなければ務まらない役目であり、母が『自然』であるとすれば、父は『理想』なのだ。父とはもともと『しんどい』ものなのである。『しんどさ』に耐え、理想を追求するのでないなら存在意義がなくなる、というのが『父』なのだ」と(『父性の復権』)。

 ところが男子に対して、そのような「しんどさ」に耐える必要はない。「男らしさ」は鎧であり、仮面であるから、「男らしく」などと無理をしないで「自分らしさ」を持て、もっと楽になれ――などと教えるのがジェンダーフリー教育なのだ。もちろん、父性と「男らしさ」とは全く同じものではない。だが、子供の頃から「無理をするな」「楽になれ」という価値観を徹底的に教え込まれた男子に、どうして父性が健全に育つことが期待できようか。

 

◆「結婚離れ」の助長と少子化による破局

 このようにジェンダーフリー教育は、子供たちの人格形成を歪め、さらには母性や父性の健全な発達をも損ねてしまう危険があるわけだ。

 しかし、もちろんジェンダーフリー教育の弊害は、こうした個人的・精神的な次元の問題にとどまるものではない。当然、こうした弊害はいくつもの深刻な社会的次元の問題を引き起こさざるをえない。

 中でも最も深刻な問題といえるのは、最近の日本の若者の間で急速に進んでいる「結婚離れ」の傾向がますます助長され、その結果、わが国が破局的な少子化社会に転落してしまう危険である。これは、先に林氏が指摘したジェンダーフリー教育の弊害――「生物として子孫を残すために必要な行動に支障が出るおそれがある」「特に男子の場合、心理的に去勢されてしまい、男性の本能行動にとって必要な積極性を失ってしまう者が出てくる可能性がある」――の必然的な帰結といえる。

 ところが、呆れたことにジェンダーフリー思想の信奉者の中には、ジェンダーフリー社会になると結婚は増えるはず、などというバカげたことをいう者がいる。例えば大沢真理氏は、「男は仕事、女は家庭」という固定的性別分業があるために「結婚の蕫敷居﨟が高く、若い人々が結婚を先送りしている」のであるから、ジェンダーフリー社会になって、固定的性別分業がなくなれば結婚は増えるという。しかし、これは世間を欺くための虚言というほかない。

 なぜなら、固定的性別分業がなくなれば結婚が増えるなどという主張はそもそも原理的に間違っているからだ。世の大多数の男女にとっては、夫婦の役割には違いがあるからこそ互いに協力しあうことの意味があり、また結婚への決意や覚悟もはじめて生まれてくる。夫婦の役割分担意識が全くなくなれば、結婚の意味はほとんど無くなり、結婚しようという意欲も消えてしまうはずである。すなわち、「男はこう、女はこう、という『固定的役割』についての通念がキレイさっぱり洗い流されたら、人間はそもそもつがいになろうなんてしなくなる」(長谷川三千子氏)というべきなのだ。結局、固定的性別分業を全面的になくそうとするジェンダーフリー教育は、「家をつくり、子供を育てるといったことにまつわる常識を積極的に壊そうとする教育」(長谷川氏)と言わざるをえないのだ。

 また、たとえジェンダーフリー教育によって固定的性別意識がなくなったとしても、林氏が懸念するように、子供たちが結婚のできない「人格」に歪められてしまえば、正しく元も子もない話となるわけだ。このように、世の中がジェンダーフリーになれば結婚が増えるなどという主張は、二重の意味で根本的に間違っているのである。

 それどころか、中川八洋筑波大学教授によると、「結婚しない/家族をもたない/子供を産まない」若者を急増させ、「日本の人口を確実に大減少させていく」ことこそは、ジェンダーフリー教育の主な目的であるとされる。というのも、ジェンダーフリー教育を受けた子供たちは、「大人になったとき正常な男女関係あるいは正常な夫婦関係をもとうとする意欲に決定的な心理欠損(トラウマ)」を生ずることになるのは余りにも明らかだからである。

 ちなみに、平成十二年の日本の若者の未婚率は、例えば二十五歳~二十九歳の世代では、男性が七〇%、女性が五四%に達している。特に女性の同世代の未婚率が三十年前と比べて三六%も増えていることが注目されているが、日本女性の合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に産む平均子供数)低下の最大の背景は、この事実にあるといわれている。

 周知のように、日本の合計特殊出生率はかなり以前から人口が維持できる水準の二・〇八を大きく下回り、平成十三年には一・三三にまで下がっている。この結果、わが国の人口は二〇〇五年以降減少傾向に転じるのは確実といわれ、二一〇〇年には六千四百万人にまで減少するとも推定されている。ジェンダーフリー教育によって若者の「結婚離れ」がさらに進んでいけば、破局的な少子化社会への転落のスピードも致命的に加速化されるはずである。

 

◆家族の崩壊から国家の崩壊へ

 もちろん、結婚しない・結婚できない若者たちがいかに増えたとしても、結婚して良き家庭を築きたいと考える若者たちが全く消えてしまうわけではない。しかし、果たしてジェンダーフリー教育を受けた若者たちは、健全な家族を築くことなど出来るのだろうか。

 ジェンダーフリー教育を受けた子供たちは極端な男女同型イデオロギーに洗脳され、母性や父性も健全に育っていないため、残念ながら多くのカップルは健全な家族を築くことが不可能となるはずだ。恐らく、「仕事も家事も平等に」という観念に縛られているであろう多くの夫婦は、対立関係に陥りがちな潤いのない夫婦関係に疲弊するのではあるまいか。あるいは母性や父性の欠如から、自由が束縛される子育てを互いに押し付け合うことにもなりかねない。結果的に家族の絆はきわめて脆弱なものとなり、離婚や虐待などの家族崩壊現象が激増することは目に見えている。つまりジェンダーフリー教育は、若者の「結婚離れ」を助長するばかりか、家族の絆を極端に弱め、「健全な家族」を日本の社会から消滅させてしまうのだ。

 こうした家族崩壊の激増が日本社会に及ぼすことになる弊害は余りにも深刻だ。例えば幼児虐待や離婚の増加によって、多くの子供たちの情緒はますます不安定なものとなり、そうなれば今や危険水域に達したと言われる少年犯罪がさらに深刻化することは間違いない。そのことは、例えば数年前に大阪弁護士会が少年の凶悪犯罪の背景を調査した報告書が、調査した全てのケースに離婚や育児放棄、虐待など家庭環境の問題があると指摘している事実からもうかがえる。子供を育てることが家族の最も基本的な機能であることを考えるならば、家族の絆の脆弱化や崩壊が少年犯罪の増加につながるのはむしろ当然の結果といえる。

 また、たとえ虐待や離婚などの目に見える形での家族崩壊にはいたらなくとも、父性や母性の欠けた親によって子供の人格形成が著しく歪められてしまう危険も決して無視できない。例えば幼児期に母親との十分な触れあいがなく、「母子一体感」を達成できなかった子供たちは、思春期になって心身症、神経症、人格障害などさまざまな「心の病」に陥りやすいことが分かっている。これに関して最近注目されるようになったのが、「サイレント・ベビー」という現象である。泣かない・笑わない・反応がない・母を求めない――などという「静かな赤ちゃん」がここ数年増えているというのだが、多くの小児科医が、わが子を愛せず、コミュニケーションがとれない母親、つまり母性のない母親に原因があると警告を発している。

 さらに、先に触れた最近の少年犯罪の増加傾向は、母性の解体現象とも「はっきりとした因果関係がある」と林氏は指摘する。「母親の愛情への飢餓感や不満感は、子供の攻撃性を増大させ、自暴自棄にさせる」からである。周知のようにスウェーデンは国をあげた育児の「社会化」を推進し、出産後間もない幼児たちを母親の元から引き離し、保育園で育ててきた。その結果、スウェーデンではやがて子供の犯罪が急増し、ついには世界一の犯罪大国となった。ジェンダーフリー教育によってさらに母性解体が進んでいけば、わが国がスウェーデン以上の犯罪大国となってしまう日が遠からずやってくるに違いない。

 もちろん、「健全な家族」の消滅が日本の社会に突きつける最大の問題は、祖先から受け継いだ独自の歴史と伝統文化に根ざした日本国そのものが消滅してしまう危険である。というのも「健全な家族」こそは、国家の土台とも言うべき道徳や伝統文化を子供たちに伝えるための最後の拠り所であり、それ故に国家の根幹だからである。「健全な家族」の崩壊が国家の崩壊に直結していることを指摘しておきたい。

 

◆男女の性差は「人類の知恵」

 では、このように「百害あって一利なし」のジェンダーフリー教育に対して、われわれはどのように反撃していけばよいのだろうか。まず、何よりも必要なのは、ジェンダーフリーの考え方そのものの誤りを徹底的に国民に知らしめることである。

 では、その誤りとは何か。改めて繰り返すまでもなく、ジェンダーフリーとは、「男女の性差は社会的・文化的に獲得されたもの」だとの理由によって、その性差を全てなくそうとする主張である。そこには二つの根本的な誤りがある。第一に「性差は文化や社会によってのみ出来上がる」という誤りであり、第二に「性差は悪であり、なくすべきだ」という誤りだ。

 最初の主張が誤りであることは、何よりも最近の脳科学が雄弁に教えている。男女の性差は本質的に「脳の性差」という生物学的な根拠に基づくものであり、「男らしさ」や「女らしさ」も「脳の性差」に深く関わっていることが明らかにされているからだ(『明日への選択』平成十五年一月号参照)。

 一方、「性差は悪であり、なくすべきだ」という主張が誤りであることは、これまで述べてきた性差否定の教育がもたらす弊害を見ても明らかだと思われる。こうした弊害は逆説的に、性差というものの存在意義や必要性を雄弁に物語っているといえるからだ。

 さらに強調したいのは、男女の性差は悪であるどころか、人間社会が存続していくために絶対に必要なものであり、それは「自然の知恵」「人類の知恵」とでもいうべき実に貴重なものだという事実である。

 人間を含む生物一般には雌雄の区別があり、また雌雄は精神的な態度においても対照的な性質をもっている。例えば大部分の生物において、たいていは雄の方が雌よりも積極的で攻撃的である。これはなぜかというと結局、生殖行為における積極性や外敵との戦いを、主に雄の方が担わなければならなかったからである。この意味で、生物一般に見られるこうした一種の性別役割分担は自然が授けた知恵ともいえる。これを林氏は生物が生き残るための「優れた戦略」であると指摘する。

 人間の「男らしさ」「女らしさ」と呼ばれる性差は、こうした生物としての人間が生き残るための性別役割分担の一環として捉えることができる。つまり「男らしさ」「女らしさ」は、男性と女性の理想を概念化したものではあるが、根本的には人間の生存自体のために不可欠な性別役割分担をうまく機能させるために生み出されたものなのである。

 それ故、日本人に限らず人類全体が、男子を「男らしく」、女子を「女らしく」育てるために色々な文化的な仕掛けを発達させてきたのである。例えば「イニシエーション(参入儀礼)」と総称される儀礼である。これは子供から大人になる儀礼であるが、大抵の場合、男女別々の儀礼が行われる。子供は抽象的な「大人」になるのではなく、必ず「男の大人」か「女の大人」になることを求められてきたからだ。

 当然、こうした「文化的な仕掛け」の具体的な姿は民族や時代によって異なるが、大部分の民族が色々な儀礼や教育などを通して、男女の区別を教えてきたのは事実である。

 重要なことは、こうした男女の区別を際立たせる「文化的な仕掛け」というものは、人類の「文化的発達と洗練」を物語っているということである。例えば林氏はこう述べる。

 「文化が発達するということは、男女それぞれの文化が分かれて洗練されていくことであり、日本でも端午の節句と雛祭りがあるように、男女それぞれの儀礼や行事が明確な意味と美しい様式を伴って発達してきた。それらを通じて男女の区別を意識させ、男性または女性としてのアイデンティティーを確立させてきたのである。

 男言葉と女言葉の区別も、文化的発達と洗練の結果であり、男女平等の遅れを示すものではなく、文化的先進性の現われなのである」

 周知のように、昨春文部科学省の委嘱によって作られた子育てパンフ『未来を育てる基本のき』は、ジェンダーフリーの考え方から鯉のぼりや雛祭りを否定的に取り上げた。しかし端午の節句や雛祭り、あるいは男言葉や女言葉など、わが国にさまざまな男女の区別にまつわる伝統文化が存在することは、フェミニストが批判するように「男女平等の遅れ」を示すものなどではなく、逆に「文化的先進性の現れ」であることを肝に銘じたい。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成15年5月号〉