「二十一カ条要求」とは何だったのか

「二十一カ条要求」とは何だったのか

吉野作造の『日支交渉論』を読む

中国の主権を一方的に踏みにじった「二十一カ条」。しかし、それは当時の国際政治の現実を無視した「後智恵」ではなかろうか。


 

◆「二十一カ条の要求」もう一つの見方

 「二十一カ条の要求」といえば、中国の主権を一方的に無視した対中国侵略政策の第一歩、というのがわが国における一般的な見方である。この露骨な帝国主義的強圧外交が中国側の猛反発を招き、以後中国では激しい反日の機運が全国的な潮流になっていった、というのが教科書などの一致した見方でもあるからだ。例えば、大阪書籍版・中学校歴史教科書はこの二十一カ条の要求について次のように書いている。

 「中国政府は、この要求に激しく抵抗しました。しかし日本は、一九一五年五月九日、ヨーロッパ諸国が戦争に全力をそそいでいるすきに、軍事力を背景として中国にせまり、日本人顧問を採用する条項を除く要求の大部分を認めさせました。これを知った中国の民衆は、この日を国恥記念日として、はげしい排日運動を起こし、中国の民族主義運動はいっそう高まりました」

 まさに「鬼のいぬ間」の何とやら、弱い中国の主権侵害を強行した日本、という記述に他ならない。であればこそ、かかる不法には、また激しい全国的排日運動が巻き起こっていったのだという記述にもなるわけだが、問題はしからばわが国の実際の行動の方もまたその通りの理不尽なものだったのか、という話なのである。

 たしかに表面的な事実のみを、今日の国際政治の感覚をもって機械的になぞれば、まさにこのような一方的な評価になるのかも知れない。しかし、この時代にはこの時代特有の国際政治の現実、あるいは尺度というものもあったのではないか、ということなのである。だとすれば、わが国の行動の評価はまさにそうした尺度をもって論じられてこそ、実は本当の意味をもつことになるのではなかろうか。今日の尺度をもってすれば、例えば他国の主権侵害それ自体が絶対の悪であろう。しかし、当時はそのような尺度は果たしてどの程度意味をもっていたかという話なのだ。

 さて、こんな思いをもってかかる歴史認識の問題を考えていた折りも折り、筆者はこの春、かの大正デモクラシーの旗手・吉野作造によるこの二十一カ条問題検討の書『日支交渉論』を読む機会を得た。吉野といえばかの「民本主義」の提唱者というのが一般のイメージだが、実は彼はそれとともに、若い頃中国に渡り、何と袁世凱の息子の家庭教師を務めるという、特異な体験を併せもつ知識人でもあったのである。その彼が、そのような体験を通して得た知識を駆使し、この問題を本格的に論じたのがこの書であった。

 吉野といえば、おそらく厳しい政府批判、というのがわれわれが常識的に抱く先入観であるに違いない。しかし、彼はここでは驚くなかれ、むしろこの要求を積極的に弁護し、「極めて機宜に適した処置であった」との認識さえ披瀝しているのである。まさにここにこそ、当時のわが国の国際的立場を踏まえた的確な情勢把握、あるいは当時の良識的な知識人による精緻な問題分析があるのではないか、というのが筆者の感想であった。

 ここはこの吉野の二十一カ条論を適宜紹介しつつ、この問題に対する「もう一つの見方」を論じてみたい。

 

◆積み残された懸案

 まず二十一カ条の内容を具体的に検討する所から始めよう。全体は五号の要求により成り立っていたが、その内容は以下の通りであった。

第一号は、山東省における旧ドイツ権益の継承に関する要求四カ条。

第二号は、旅順・大連の租借期限及び南満州・安奉両鉄道の期限の延長、南満州・東部内蒙古における日本人の居住・営業などの自由に関する要求七カ条。

第三号は、漢冶萍公司の日支合弁に関する要求二カ条。

第四号は、支那沿岸の港湾や島嶼の他国への不割譲に関する要求一カ条。

第五号は、支那全般にわたる希望条項としての七カ条。

 つまり、以上全てを合計して「二十一カ条の要求」というのが、この名称の由来であった。ただ、これを子細に見ればわかるように、その中で純然たる要求事項というのは実は十四カ条で、その他七カ条は所謂「希望条項」に他ならなかった。従って二十一カ条というのはいわば誇大宣伝のために中国側が創作したもので、むろん交渉当時わが国が公式に使用していたものでもなかった。

 それではそうした一連の項目の中で、わが国は何を中国に要求しようとしたのだろうか。まずこの要求の最高当事者たる時の首相大隈重信の言葉から見ていきたい。彼は交渉開始後の二月二十二日、「日支交渉と帝国の態度」という一文を草し、次のように要求の真意を説明している。

 「日本は支那に対して決して領土的野心を有する者に非ず。成るべく友誼的に相互の経済的利益を進めて行こうと云う趣旨に他ならぬのである。抑も日支両国の間には、日露戦争以来久しく懸案となって居るものが多い。本来ならもっと早く解決さる可きものが当局の怠慢なりしと、二度の革命に依り、今日まで閑却されて居った為めである。その中、山東省の問題は偶発的のものであるが、是は従来独逸が有して居った利権を、東洋永遠平和の為め、日本に移すと云うに過ぎないのである。斯く観じ来れば今回の要求は支那に対し、決して過大なる要求ではないのである」

 ここにもあるごとく、大隈の言によれば、要求は何も唐突なものなどではなく、日露戦争以後、両国の間で久しく懸案とされていた未解決の問題を、この際一気に解決しようというものに他ならなかったということなのである。未解決だった背後には、遺憾ながらわが国の政府の怠慢、そして中国の複雑な国内事情というものがあった。それを、この機会を利用して一気に解決しようというのだ。むろん、第一号の山東省権益に関する問題については、たまたま生起した第一次世界大戦によって急遽浮上するに至った要求に過ぎなかった。しかし、それを加えてもなお、これらはきわめて常識的な要求に過ぎず、決して彼らがいうごとき唐突かつ過大な要求などではなかったという話なのだ。

 この点は吉野もまた同様、次のように指摘している。

 「日露戦争以来、日本と支那の間には、幾多の重大な問題が未解決の儘残って居った。是は何れ早晩解決を見なければならぬものであったが、適当の時機がなくして今日に及んで居ったのである。……即ち今度の日支交渉というものは、日独戦争を機会として起こり、此戦争の直接の結果として生ずる問題と共に、夫の多年の懸案をも一挙に解決せんことを目的とするものである」

 

◆有名無実の「日本の権益」

 それでは、ここにいう日露戦争以後の未解決の問題とは具体的にはどのような問題だったのだろうか。ここはもう少し詳細に見ておく必要があるだろう。

 周知のように、日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、その戦後処理の方は残念ながらいかにも不十分なままに終わっていた、というのがそもそもの出発点であった。たしかにポーツマスにおける日露講和条約により、わが国は南満州鉄道と旅順・大連をロシアから引き継いだ。しかし、その期間はロシアが中国から得た租借期限の残余期間に過ぎず、八年後には早くも期間満了になる性格のものだったのである。一方、これと密接な関係に立つ南満州及び東部内蒙古(現在の中国東北部)におけるわが国の地位については、むしろ日中間には何ら具体的な取り決めすらなされていなかった。木村時夫氏はこうしたわが国が当時直面していた問題につき、次のように指摘している。

 「そのため中国では明治四十年(一九〇七)以降、毎年のように満州における日本の立場を困難に陥れるような事件が頻発した。たとえば中国もしくは外国資本による新しい鉄道の敷設問題や、四国借款団の成立等である。特に後者は日本、ロシアを除外し、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツの四カ国が合同して中国と借款契約を結び、中国の開発に当たるというもので、その狙いは明らかに日本の進出の阻止である。これは中国国内にも反対が起こり、後には日本、ロシアを加えた六国借款団となるが、辛亥革命の勃発で沙汰止みとなる。/その他アメリカ資本によって福建省内に軍港もしくは造船所を建設する計画、また揚子江の入り口にある舟山列島のドイツへの租借等の計画も浮上した。日中両国の企業の合同によって経営されている漢冶萍公司から、日本を排除しての官営すら主張されていた」(『知られざる大隈重信』)

 つまり、当時中国におけるわが国の存在は、このような度重なる反日的な動きに直面していたということなのである。日露戦争に勝利したというのは実は名のみで、実際にはそれで得た権益などというものは、隙あらばいつでも無視され、否定されても仕方のない現実にあった。それゆえ、かかる動きに触発されての止むにやまれぬ対応が、とりわけ第二号以下の要求であったのである。外交史家グリスウォルドは述べている。

 「いかに条約を結んでもロシアは依然として北方の脅威であり、英米の態度も不安の種だった。現にノックスの満州中立化計画と錦愛鉄道計画は満州に於ける日本の特殊地位を脅かした。……これらの列強が戦争に没頭している今こそ、日本が事態をきちんと整える時だった。三国干渉以来、西洋の干渉主義者たちは、日本が正当かつ死活的に重要な政策を遂行するのを繰り返し妨害してきた。……戦後、ヨーロッパの関心が解き放たれた暁、欧州列国の相談で支那との約定がぶち壊されることのないよう、日本は今のうちに支那との約定を十分拘束力のあるものにしておきたかったのだ。簡単に云えば、これが二十一カ条要求の理由であった」(中村粲『大東亜戦争への道』より)

 

◆熾烈きわまる列強の利権競争

 それでは次に、かかる要求の内容をもう少し具体的に検討してみたい。果たしてそれは今日いわれるほどに不当なものだったのか。例えば第二号の要求である。

 この中で、まずわが国は旅順・大連の租借地と満鉄等の九十九年の期限延長を要求している。当時、中国における他の列強租借地の期限は、英国の威海衛を除けば全て九十九年だった。この国際的な標準をわが国にも与えて欲しい、と要求したのがこの第二号に他ならなかったのである。そうでなければ八年後にはこの期限は切れることになっていた。その時わが国は、ハイそうですかとそのまま引きさがれるか、ということだったのだ。

 そこには確実にわが国の国際政治における基本姿勢が問われていたし、何よりもこの地はまさにわが同胞が血で贖ったものに他ならなかった。だとすれば、わが国は条約の期限更新を要求するしか方法はなかったということなのである。吉野は書いている。

 「支那が今日の如く自ら立つことが出来ない程に弱くては、日本に於て旅順大連というものに、経済的政治的根拠を据えることは必要である。……諸外国の利権競争の烈しき今日、我国は旅順大連を手放す訳には行かぬ。各国一緒に手放すというなら別問題だが、日本のみ返すという事は出来ない。少なくとも各国が……(権益を)有って居る間は、我国も引続いて旅順大連を借りて置く必要がある。……旅順大連の租借期限の延長ということは、日本に取って至極必要なのである」

 次に、第三号の漢冶萍公司についての要求を見てみよう。漢冶萍というのは、すなわち漢陽の製鉄所、大冶の鉄山、萍郷の炭坑、この三つの事業を経営している「漢冶萍煤鉄公司」のことであった。これはわが国の鉄鋼業の存立そのものを左右する重大な会社でもあった。それゆえ、わが国の資本家はここにこれまで莫大な資本を投下してきたのである。

 にもかかわらず、中国はしきりに鉄山の国有化などということを主張して、暗にこの会社よりわが国の勢力を駆逐せんとすら策動したのである。よってわが国としてはこれに対し、この会社を日支合弁となすこと、国有化などというようなことのされることのないこと、またわが国の同意を得ることなくこの会社の財産が勝手に処分されるようなことのないこと等々、これらにつき政府としての保証を求めたのである。吉野は次のように述べている。

 「之に依って我国は一方には漢冶萍公司に、外勢の入ることを防ぎ、また支那政府から国権を以て会社の現状が左右せらるるの虞を杜絶し、他の一方に於て、他日日支合弁の議成らば、政府の之を快く承認せんことを支那に求めると云うことになったのである」

 つまり、これは経済上の最低限の要求ともいっていい要求に他ならないということなのである。

 それとともに、ここではもう一つ、第五号の福建省に関する要求(厳密には希望)についても触れておきたい。わが国はこの中で、福建省に外国の勢力を入れさせない公約を中国に求めている。というのも、周知のように福建省は台湾の対岸にあり、わが国としては経済上並びに軍事上、ここはきわめて敏感たらざるを得ない地域であったからである。米国は従来よりこの福建省に対して、一方ならぬ関心を示してきた。古くは米海軍根拠地建設の話に始まり、最近では同省北部の要港三都墺に、米国からの借款による軍港及びドック築造などといった話も進めていたのである。吉野はやはり述べている。

 「福建省は台湾の対岸にして、……我国と密接の関係にあることは、固より云うを俟たない。……福建省に他日何か事が起これば、必ず台湾に影響を及ぼすと云うことは、自然の数である。……若し仮りに三都墺の如きが、外国の勢力の拠る所となったとすれば、帝国南端の防備と云う者は、半ば其効力を減ぜらるる恐がある。要するに福建省は、経済上からみても、政治上から見ても、到底之を我国と密接な関係に置かねばならぬ地勢にあるのである」

 つまり、この福建省に対してわが国が何らかの要求をなすのは、軍事上・経済上きわめて当然のことであり、決して不自然なことではないというのである。

 

◆捏造、挑発、阻碍、離間、誇大宣伝…

 さて、わが国の要求というものは概ねこのようなものであった。しかしながら、この要求が中国側のいわゆる誇大宣伝によって歪曲され、その結果冒頭に紹介したような反日の渦が中国国内に巻き起こることとなっていったのが実際の歴史展開であった。わが国外務省公表の『対支交渉顛末』は、この経緯を次のように書いている。

 「支那政府は、或は交渉の当初より、其内容を厳に秘密に附し置くべき約束あるを無視し、提案各条項を故意に誇大にし、又は誣曲捏造を加えて外聞に流布し、以て列国の我に対する反感を挑発せんとし、或は談判の内容を随時新聞に記載せしめて交渉の進行を阻碍し、或は帝国に不利なる報道を捏造し、以て帝国と与国との関係を離間せんと試み、……漫りに交渉の遷延を図りたるは掩うべからざる事実なりとす」

 すなわち、中国はあらゆる手練手管を駆使しつつ、この交渉そのものの遷延を図ったのである。そしてその間に,内にあっては民衆の反日運動を扇動すること、また外に対してはわが国の要求を誇張し、列強の干渉、介入を引き出すことに全力をあげた。最終的にはこの要求は受諾せざるを得ないというのが彼らの判断であったが、そのためにはそれに至る過程であらゆる抵抗策を試み、かかる中でわが国に可能な限りの譲歩をさせよう、というのが彼らの戦術であったのだ。

 こうしたやり方に刺激され、冒頭にも指摘したように、民衆の間には大規模なデモを伴う要求絶対反対の声が高まった。一方、先の『対支交渉顛末』にもあるように、中国は北京駐在の外国人記者を一同に会し、本来なら厳秘にすべきわが国の要求を、それも一方的な誇張・歪曲を加えた上で公開し、わが国の強圧ぶりを宣伝これ努めることもした。

 ちなみに、当初の列強の受け止め方は冷静であった。ところが、ある段階で第五号の希望条項が問題になることになった。というのも、わが国は中国の宣伝に対応すべく、急遽問題の要求原案を列強諸国に送り、わが国の立場を説明したが、そこには第五号を入れてはいなかったからである。「それは希望条項で、交渉の対象ではないから」というのが、わが国外務省の立場であった。しかし、それがむしろ列強の疑惑を呼ぶことになったのだ。米国はイギリス、フランス、ロシア三国に対し、日中交渉への共同干渉を提起した。さいわい、三国の反対でこの試みは実現しなかったものの、いたずらに中国側を喜ばすだけの結果となったことは否めない。

 ともあれ、こうした中国の遷延策もあって交渉は難航した。わが国は穏便な解決をめざし、再度にわたって要求の修正も試みた。しかし、中国側はそれに応えるどころか、むしろ東部内蒙古に日本の要求権はないと主張したり、日本が青島のドイツ軍を攻撃した際の中国側の被害の賠償を新たに要求する始末であったのである。これに対しわが国は、最終的には第五号のいわゆる希望条項を全面撤回するという譲歩まで行った。けれども、交渉はいつまでもまとまらなかった。

 かくて出てきたのが、最後通牒の手段に訴えるという選択であった。実はこれは中国側が外交ルートを通し、ひそかにわが国に求めてきた手段でもあった。要求を受諾することは不可避だとしても、それには彼らのメンツを立てる舞台設定もまた必要だということであったのだ。五月七日、ついに最後通牒は出され、五月十日午前一時、要求は受諾された。「軍事力を背景として中国にせまった」と教科書が書く交渉の結末を迎えたのだ。

 

◆「出遅れ」は許されなかった

 ところで、最後にもう一点触れておきたいのは、二十一カ条要求の実体はそのようなものとしても、それでも尚それが中国の主権を公然と侵害するものである限り、やはり批判されるべきではないか、という人々の主張である。これは冒頭でも指摘したように、今日の視点からいえば、許すべからざる侵略行為と見られても仕方のないものだからである。

 しかし、ここで紹介したいのは同じく吉野の指摘である。彼は自らもいうように、「支那を援け、支那と提携し、支那も日本も共に東洋の強い国として、あらゆる方面に勢力を張り、以て世界の文明的進歩に貢献すること」を理想とする者であった。けれども彼はそれとともに、「又他面には支那に於ける欧米列国の勢力扶植ということも計算の外に置くことが出来ぬ」と主張する者でもあったのである。つまり、中国の主権尊重は理想だとしても、あくまでも当時の中国の現実から出発する限り、それは必ずしも絶対の要件たり得ないのではないか、との見解を把持する者であったのだ。彼は述べている。

 「根本の政策は支那の保全を図り、支那の健全なる自主独立の発達を援くるにあるのだけれども、尚他の一方に於ては、他国の競争に促されて、勢力範囲拡張の競争の仲間に這入るという実際上の必要が吾々に迫って居るということも認めねばならぬ。況や支那の将来は果たして吾々の期待するが如く、自主独立の国家として健全なる発達を為し得るや否や、明白でない。……此点から云っても、列国と競争して、支那に帝国の勢力、帝国の利権を立てると云うことは、決して無用不急の事業ではない」

 つまり、中国が自らの独立を独力をもって守ることができない以上、中国は必然的に列強による勢力範囲拡張競争の場となる他はない。その時、わが国がこの動きを拱手傍観していたらどうなるか、と彼は問うのである。彼もいうように、われわれは中国という一国の代わりに、列強の出店をすぐ隣に見るようなことにもなりかねないのである。それは大変な脅威であり、となればわが国はむしろこの競争場裡の前面に積極的に打って出て、中国という場において列強と直接対峙するのが得策ではないかということなのだ。

 それだけではない。わが国は人口の増加、経済の発達という点から見ても、今後大いに外部に向かって発展せざるを得ない運命の中にある。そしてその場合、この中国は何れの面より見ても無視することの許されぬ中心的な活動舞台なのである。だとすれば、この舞台において、列国が其の勢力範囲を争う競争場裡にわが国が出遅れることは許されることではない筈なのだ。以下はやはり彼の指摘である。

 「一日遅れれば一日だけ、益々自由活動に残さるる部分が減ずる訳になる。して見ると、もっとも直接重大の関係を有する我が日本としては、已むを得ず列国と同様に、支那に於て専属的排他的の勢力範囲を得ることに努力せねばならぬことになるのである」

 今日の立場からならいかなる批判も可能だろう。しかし問題は、当時の状況の中でどう考えるかという問題である筈なのだ。吉野の論はその点きわめて参考になる、というのが筆者の感想であった。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

〈初出・『明日への選択』平成13年4月号〉