昭和天皇・マッカーサー会談の「事実」

昭和天皇・マッカーサー会談の「事実」

敵将を心服させた昭和天皇の御聖徳


 戦後六十回目の八月十五日が近づくにつれて、自ずと想起されるのは、終戦前後に示された昭和天皇の御聖徳である。昭和生まれの日本人として、記者は「終戦のご聖断」「マッカーサーとのご会見」「終戦後のご巡幸」はしっかりわが子らに伝えたいと常々願っている。言うまでもなく、これらのご行動に脈打つ「捨て身」のご精神により、戦後の日本と日本人は救われたと思うからだ。

  ところが、である。来年から使用される中学校の歴史教科書で、昭和天皇のご事績を記しているのは扶桑社のみである。他の大部分の教科書には、「昭和天皇」のお名前自体が出てこない。お名前は出てきても、悪意が感じられるものもある。

 とりわけ唖然とさせられたのは、東京書籍である。「占領と日本の民主化」という項目に「マッカーサーと昭和天皇」と解説した写真が新たに載っている。腰に手をやって構える開襟シャツにノーネクタイのマッカーサーの隣にモーニング姿で直立不動の昭和天皇が並んでいる、お馴染みの写真である。昭和二十年九月二十七日、天皇が初めてマッカーサーを訪問された際に写されたものだ。

  この写真が当時、全国民に大きなショックを与えたことはよく知られている。これを見た歌人の斎藤茂吉は日記に、「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と記し、また内務省は不敬に当たるとして、各新聞に発表を控えさせた(GHQの指令で九月二十九日公表された)。東京書籍の教科書は、肝腎のご会見の中身には何も触れないで、GHQの宣伝臭の強い問題写真だけを掲載したのである。

  一方、扶桑社の教科書は、ご会見の中身をこう記している。「終戦直後、天皇と初めて会見したマッカーサーは、天皇が命乞いをするためにやって来たと思った。ところが、天皇の口から語られた言葉は、『私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためお訪ねした』というものだった」と。

  さらに、「私は大きい感動にゆすぶられた。(中略)この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした」という『マッカーサー回想記』の有名な一文も載せている。
 かかる重大な史実を扶桑社以外の教科書が記述しない真意は測りかねるが、『マッカーサー回想記』が伝える戦争の「全責任を負う」との天皇のご発言については、その信憑性を疑う向きもあるのは事実である。

 その主な原因は、昭和五十年に児島襄氏が公表した「御会見録」である。九月二十七日の会見に同席した通訳官が記したというこの「御会見録」には、マッカーサーが伝えたような天皇のご発言がなかった。もともと児島氏は天皇の戦争責任を否定する立場から、ご発言の信憑性に疑問を発していたのだが、これで児島氏の疑念はいよいよ深まった。

 さらに三年前、それとほぼ同一の「公式記録」を外務省が公開するに至り、マッカーサー発言を「作り話」と否定したり、「天皇はむしろ国民に責任を転嫁しようとした」という声さえ上がる始末となったのだ。

 結論からいえば、天皇が戦争の「全責任を負う」と述べられたのは事実であり、この「捨て身」のご精神によって、戦後の日本と日本人は救われたことは間違いない。

 以下、この歴史的会見における昭和天皇のご発言について、様々な証言を整理・再検証してみたい。

 

◆十年後に明かされた「歴史的事実」

 昭和二十年八月三十日、連合国軍最高司令官ダグラズ・マッカーサー元帥は神奈川県の厚木飛行場に到着した。九月二日、横須賀沖に停泊する米戦艦ミズリー号上で降伏文書の調印が済むと、マッカーサーはGHQ総司令部を横浜から皇居の真向かいに位置する第一生命ビルに移し、占領政策に本格的に着手した。 

 昭和天皇が米国大使館の大使公邸にマッカーサーを初めて訪問されたのは九月二十七日のことである。この会見がもたれるに至った経緯については種々の推測があるが、「天皇御自身の発意であり、マッカーサーの側ではそれを待っていたとばかりに歓迎したというのが実相だった」(小堀桂一郎『昭和天皇』)といってよさそうだ。

 天皇にお供したのは、石渡荘太郎宮内大臣、藤田尚徳侍従長、筧素彦行幸主務官、通訳の奥村勝蔵外務省参事官など六名。が、会見に同席したのは奥村参事官のみだった。

 会見後、奥村は会見の内容についてのメモを作成した。それは、外務省から藤田侍従長のもとへ届けられ、侍従長から天皇へ手渡された。通常であれば、その種の文書は侍従長の元に戻されるが、そのメモは戻されなかった。会見の内容は公表しないというマッカーサーとの約束を守るための措置だったと思われる。

 日本人が会見の内容を初めて知り、深い感動に包まれるのは、それから十年後のことだ。すなわち、「天皇陛下を賛えるマ元帥――新日本産みの親、御自身の運命問題とせず」という読売新聞(昭和三十年九月十四日)に載った寄稿が最初の機会となる。執筆者は、訪米から帰国したばかりの重光葵外務大臣であった。

 重光外相は、安保条約改定に向けてダレス国務長官と会談するために訪米したのであるが、この時マッカーサーを訪ね、約一時間会談した。先の外相の寄稿は、その際のマッカーサーの発言を紹介したものだ。

 次に、その寄稿の一部を紹介したい。重光によれば、マッカーサーは、「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである」と述べた後、陛下との初の会見に言及。「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました」として、次のような天皇のご発言を紹介したというのである。

 「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います」

 そしてマッカーサーは、このご発言に関する感想をこう述べたという。

 「私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」

  この天皇のご発言を知らされた重光外相は、次の感想を記している。

 「この歴史的事実は陛下御自身はもちろん宮中からも今日まで少しももらされたことはなかった。それがちょうど十年経った今日当時の敵将占領軍司令官自身の口から語られたのである。私は何というすばらしいことであるかと思った」

 扶桑社の歴史教科書が引用している『マッカーサー回想記』が出版されたのは、それから九年後の昭和三十九年のことである。

 

◆GHQ側の「証言」

 ところで、会見のお供の一人の筧氏は、重光外相の寄稿を読んだ感想を、「十年来の疑問が一瞬に氷解した」と記している。氏の「疑問」とは、会見の前後でのマッカーサーの態度の急激な変化である。会見の時間はわずか三十七分であった。が、「先刻までは傲然とふん反りかえっているように見えた元帥が、まるで侍従長のような、鞠躬如として、とでも申したいように敬虔な態度で、陛下のやや斜めうしろと覚しき位置で現れた」という。会見前後の場の雰囲気を知る当事者として、筧氏は「あの陛下の御言葉を抜きにしては、当初傲然とふんぞり返っていたマッカーサー元帥が、僅か三十数分のあと、あれ程柔和に、敬虔な態度になったことの説明がつかない」(『今上陛下と母宮貞明皇后』)と証言している。これは、マッカーサーが伝えた天皇のご発言を裏付けるいわば状況証拠といえよう。

 とはいえ、むろんこれはマッカーサーの発言を裏付ける決め手とはなり得ない。会見の内容についてGHQ側に記録はない。とすれば、重光外相との面会までに十年の月日が流れており、マッカーサーの記憶を信頼できるのか、やはり疑問なしとしない。また『マッカーサー回想記』については、回想記全体が自己宣伝調で、その信頼性を疑う向きが一部にあるのも事実であろう。

 しかし、幸いにもというべきか、あの会見の直後、マッカーサーはその内容を断片的に複数の側近などに漏らしている。そこには創作が入り込む余地は考えにくい。しかもそれらは大筋で、その後のマッカーサーの発言を裏付けているといってよい。

 例えば会見の時に大使公邸にいたマッカーサーの幕僚の証言だ。軍事秘書のボナ・フェラーズ准将は、会見が行われた九月二十七日に自分の家族に宛てた私信で、天皇が帰られた直後にマッカーサーから聞いた話として、こう伝えているという。

 「マッカーサーは感激しつつこういった。『……天皇は、困惑した様子だったが、言葉を選んでしっかりと話をした』。『天皇は処刑を恐れているのですよ』と私がいうと、マッカーサーは答えた。『そうだな。彼は覚悟ができている。首が飛んでも仕方がないと考えているようだ』」(升味準之助『昭和天皇とその時代』)

 また、会見から一カ月後の十月二十七日、ジョージ・アチソン政治顧問代理は国務省宛てに、マッカーサーから聞いた天皇のご発言について次のように打電した。

 「天皇は握手が終ると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、東条のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民の指導者として、臣民のとったあらゆる行動に責任を持つつもりだと述べた」

 この文書を最初にアメリカ国立公文書館で発見した秦郁彦氏は、「決め手と言ってよい文書」「天皇が全戦争責任を負うつもりであったのは明らかである」と指摘する。また氏は、次のような根拠も挙げている。

 「このことは、八月二十九日天皇が木戸内大臣に、『戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて、退位でもして納める訳には行かないだろうか』(木戸日記)と語ったところや、九月十二日東久邇宮首相が、連合国の追及に先立って、戦争犯罪人を日本側で自主的に処罰する方針を奏上すると、即座に反対して撤回させた事実と首尾一貫してくる」(『裕仁天皇五つの決断』)

 なお、「東条のトリック云々」のご発言にひっかかる向きがあるかもしれないが、秦氏はこう解釈する。

 「天皇がこだわったのもむりはない。東郷外相ですら無通告攻撃に傾いていたのを『事前通告は必ずやるように』と厳命したにもかかわらず、奥村在米大使館書記官のタイプミスで結果的に通告がおくれてしまったのだから、痛恨の思いは誰よりも深かったであろう。

 しかも、この時点では天皇は真相を知らされていなかったので、東条に欺かれたと信じこんでいたのが、言い訳めいた言動になったと思われる」(『文藝春秋』平成16年1月号)

 

◆日本側の二つの「証言」

 次に、ご会見についての日本側の情報を整理してみたい。

 むろん、最も重要なのは、通訳の奥村氏が会見当日に作成したメモである。これについては冒頭で触れたように、まず昭和五十年、「『マッカーサー』元帥トノ御会見録」(以下、会見録と略)なるものが、『文藝春秋』(昭和50年11月号)で児島襄氏によって公表された。そこで児島氏は、資料の入手先を明らかにしないまま、「奥村勝蔵が手記した会見記録は次のとおりである」と記している。

 また平成十四年十月、外務省は第一回天皇・マッカーサー会見の「公式記録」を公開した。先にも記したように、その内容は児島氏が公表した会見録とほぼ同一の内容だった。

 会見録によると、マッカーサーが約二十分、「相当力強き語調」で雄弁をふるった後、陛下が、「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考でありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所であります」と述べている。が、マッカーサーが伝えた戦争の「全責任を負う」とのご発言は出てこない。つまり日本側の公的記録によっては、マッカーサーの発言は裏付けられない結果となったのだ。

 しかし一方、日本側にもマッカーサーの発言を裏付ける重要な情報がある。奥村氏のメモを天皇に届けた藤田侍従長が記した回想録である。職掌上、そのメモに目を通した同侍従長は、昭和三十六年十月、当時の記憶に基づき、陛下のご発言の内容を公表した。問題のメモについて、同侍従長は「宮内省の用箋に五枚ほどあったと思う」と述べ、陛下は次の意味のことをマ元帥に伝えたと記している。

 「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。
 私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」

 この天皇のご発言に続けて、同侍従長は、「一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露はマ元帥を強く感動させたようだ」と述べ、次のようなマッカーサーの発言を記している。

 「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」(『侍従長の回想』)

 先に見たマッカーサーの発言では、天皇が日本国民のために「連合国の援助」をお願いしたことについては触れていない。しかし高田万亀子氏によれば、天皇が「自分はどうなってもいいが、国民を食わせてやってくれ」という発言をなされたという事実を、マッカーサーも雑談の中で語っているという(「昭和天皇についての二つの新証言」)。

 このように、藤田侍従長の回想とマッカーサー側の発言とは、肝腎の部分でほぼ一致するのである。

 

◆「重大さを顧慮し削除した」

 以上の事実が示唆しているのは、奥村氏の手になる会見録は二種類あるということであろう。事実、昭和天皇の元に届けられたものと、外務省が保管したものと二種類の会見録があるのではないかとの推測が専門家の間でもささやかれてきた。

 例えば升味氏は、「奥村は、それ(「全責任を負う」とのご発言)を御会見録に記した。吉田外相は、それを二九日侍従長に送った。それから奥村は、自分の手控えから肝腎の部分を削除した。……削られたのは、外務省の保存記録かもしれない」(前掲書)との推測を記している。

 そして、その後、平成十四年八月五日付朝日新聞は、この推測を傍証する重大な文書を紹介した。それは、奥村氏の後任通訳を務めた元外交官の松井明氏が記した「天皇の通訳」と題する文書である。その文書で松井氏は、こう記している。

 「天皇が一切の戦争責任を一身に負われる旨の発言は、通訳に当られた奥村氏に依れば余りの重大さを顧慮し記録から削除したが、マ元帥が滔々と戦争哲学を語った直後に述べられたとのことである」

 この松井証言については、「松井がいつどの時点でどういう形で彼から聞いたのかが不明確であるし、機密保持を前提としていた『記録』から、なぜあえて『削除』する必要があったのか疑問とせざるをえない」(豊下楢彦氏)との指摘もある。

 しかし、こうした疑問に対して秦氏は、「東京裁判を控えて『天皇有罪の証拠』とされかねないこのくだりを、奥村があえて削除したのは当然と私は考える」と述べている。

 以上、マッカーサー側と日本側の情報を検討してきたが、昭和天皇の「全責任発言」はまぎれもない事実と結論付けてよいのではなかろうか。

 

◆国家国民を救った捨て身の御精神

 ところで、この歴史的会見の意義を、例えば高橋紘氏は、「『知日派』の総帥は、いまやマッカーサーであった」との象徴的な言葉で評している。どういうことかといえば、当時のマッカーサーには軍事秘書として、日本文化に造詣が深かったボナ・フェラーズ准将、副官には歌舞伎役者の口真似までできる日本通のフォービアン・バワーズなどの知日派軍人が仕えていた。だが九月二十七日を機に、マッカーサーが突如として知日派米国人の最たる存在になったということだ。そして、このことは、その後の占領政策にきわめて重要な影響を及ぼすことになるのである。

 当時、天皇制をめぐって米国務省内では議論が続いており、昭和二十年十月二十二日のSWNCC(国務・陸・海軍三省調整委員会)の会議では、マッカーサーに対し、天皇に戦争責任があるかどうか証拠を収集せよ、との電報を打つことが承認された。これに対してマッカーサーは翌二十一年一月二十五日、アイゼンハワー陸軍参謀総長に対し、次のような回答の手紙を送ったという。

 「過去一〇年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには一〇〇万人の軍隊と数十万人の行政官と戦時補給体制が必要である」(高橋紘『象徴天皇』)

 この手紙を高橋氏は、「天皇の終戦直後の働き」の「結実」とみなしている。つまり、天皇との会見などを通してマッカーサーが抱くに至った天皇へのプラスの認識が、先のマッカーサーの判断をもたらしたというのである。これによって天皇は戦争犯罪人としての不当な訴追を免れ、戦後も天皇制が――象徴という不本意な形にしろ――維持されることになったといえる。そのことが戦後の日本の復興と安定に寄与した意義は計り知れず大きい。

 むろん、こうしたマッカーサーの対応の背景には、占領政策を成功させるために天皇の力を政略的に利用しようとする意図があったともいえよう。しかしマッカーサー回想記などのその後の発言を踏まえれば、マッカーサーが「心から天皇に心服し」、「九月二十七日の会見を以て、彼の対天皇関係は、初めに敬愛ありき、とでも言うべき鋳型が出来てしまった」(小堀氏・前掲書)ことも、また否定できない事実というべきなのである。

 そして、マッカーサーと昭和天皇との間に「初めに敬愛ありき」とでもいうべき鋳型が出来たことにより、実は戦後の多数の日本人の命が救われたともいえるのである。その点については、当時の農林大臣であった松村謙三氏の『三代回顧録』に詳しく書き留められている。ここではその要点のみを記しておく。

 終戦直後の日本は食糧事情の悪化に直面しており、昭和二十年十二月頃、天皇は松村氏に対して、「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい」と述べられ、皇室の御物の目録を氏に渡され、「これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられた。

 そこで当時の幣原首相がマッカーサーを訪ね、御物の目録を差し出すと、非常に感動したマッカーサーは、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったという。

 松村氏は記している。「これまで責任者の私はもちろん、総理大臣、外務大臣がお百度を踏んで、文字どおり一生懸命に懇請したが、けっして承諾の色を見せなかったのに、陛下の国民を思うお心持ち打たれて、即刻、〝絶対に餓死者を出さぬから、陛下も御安心されるように……〟というのだ。……それからはどんどんアメリカ本国からの食糧が移入され、日本の食糧危機はようやく解除されたのであった」と。

 これは、やはり「捨て身」のご精神によって敵将を心服せしめた昭和天皇の御聖徳の賜物というしかない。(日本政策研究センター研究員 小坂実)

〈『明日への選択』平成17年7月号〉