余りにも乱暴な憲法学者の改正反対論

 最近、マスコミが多用する言葉に「権力の思い上がり」というのがある。権力とはむろん政府権力のことで、最近は安倍政治のあり方を批判する言葉として使われている。

 しかし、何も混ぜ返すわけではないが、筆者は最近「憲法学者の思い上がり」というのもあるのではないか、と思い始めている。憲法学者が憲法改正を批判するのは自由としても、その論理が最近余りにも粗雑・高飛車で、「俺がこういうのだから、これが正しい」といわんばかりの「上から目線」の乱暴なものになり始めている、との感を禁じ得ないからだ。永い学者としての権威の座が、自らの論理を自己検証する謙虚さすら失わしめたというべきか。

 そのことを改めて思わされたのは、八月十六日の毎日新聞に掲載された上智大名誉教授・高見勝利氏の憲法改正に対するコメントだった。むろん、これはあくまでも一例という程度のものに過ぎないのだが、いかにも権威ある憲法論と見せつつ、しかしあくまでもいっていることは「ダメなものはダメ」というレベルのものに過ぎなかったからだ。そんなコメントを載せる新聞も新聞だが、語る学者も学者だといいたい。

 氏はまず首相による憲法改正発議権の乱用は許されないとし、次のようにいう。

 「憲法の役割として一番重要なのは国家権力を制限し、国民の自由を守ることだ。フランスの思想家、モンテスキューは著書『法の精神』で『権力者は自ら保持する権力を目いっぱい使いたがる』と指摘している。権力者が権力を目いっぱい使ってしまうと国民の自由が失われてしまうので、権力が暴走しないように憲法で歯止めをかけなければいけないというのだ」

 これはまさに護憲派学者の立憲主義論の定番といってよいが、まずここで問いたいのは、その「歯止め」たる憲法に規定された改正手続きに従ってなされようとされている憲法改正が、どうして「憲法改正発議権の乱用」になるのか、ということだ。この憲法の「歯止め」を無視したのならともかく、その「歯止め」に従ってやるというのである。なのに、どうしてそれが「権力の乱用」になるのか。

 にもかかわらず、氏はそこに、だからとしつつ、新たな「基本ルール」なるものを勝手に付け加えるのである。要は憲法改正では、「権力の創設や権力の拡大」を目的としてはならず、仮にやむを得ない場合が出てきたとしても、その場合は「綿密な理由づけ」が必要であり、それは他に手段がない場合か、現行憲法の合理的解釈か立法措置などで目的が達成できない場合に限られる、とするのだ。

 ちょっと待ってほしい。そんな新ルール、どこの誰が決めたというのだろうか。これでは「ゴールポストの勝手な移動」で、むろん憲法にそんな規定はあるはずもない。とすれば、まさに「学者がそういうのだからそうなのだ」という話なのであろうか。

 もちろん、そんなルールを持ち出す以上、安倍首相提案の改正案がそのルールを逸脱したもの、との厳密な論証も求められよう。しかし、これに対しても、氏は自衛隊は合憲だとの政府解釈が既に確立しており、「法的にも安定しているので改正は不要」というのみなのだ。ならば安保法制の時に、これを違憲とし、「これがどうしても必要だというのなら、憲法改正に問うのが筋ではないか」としたあの反対論はどうなるのか。

 というより、現行の9条から自衛隊の存在を引き出した解釈自体が、既に「目いっぱい」権力を乱用した結果ではなかったか。それを許しつつ「だから憲法改正は不要」はご都合主義が過ぎよう。学者として論を立てるのなら、もっと首尾一貫した筋道の立つ論を立てるべきだ。そんな議論、一時は国民を騙せてもいずれ化けの皮がはげる。(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

〈『明日への選択』平成29年9月号〉