尖閣・竹島 こんな対外発信が始まっている

尖閣・竹島 こんな対外発信が始まっている

内閣官房のリードで出来た『尖閣諸島に関する資料調査報告書』『竹島に関する資料調査報告書』。尖閣・竹島が日本領土であることを示す疑いなき証拠がここにある。

 内閣官房に「領土・主権対策企画調整室」なる広報担当部局があるのをご存じだろうか。尖閣、竹島、北方領土等、領土をめぐるわが国の主張を発信することを任務とする機関だという。迂闊な話で筆者はこれまでその具体的な活動については知ることがなかったのだが、先日縁あってその一端を知ることとなった。同室はその活動の一環として、外部研究機関に尖閣・竹島に関する資料・文献の調査を毎年委託もしているが、この五月にその平成二十八年度分の報告書がまとまり、そのことを知人より紹介されたのだ。

 わが国の主張の対外的発信ということについては、従来よりその不充分さが指摘されてきた。ところが、今回この報告書を一読して、少なくともこの領土問題では、政府はそれなりに頑張っている、との感想をもった。

 以下、ここではこの報告書で公開されることとなった幾つかの資料につき、紹介してみたい(同室のウェブサイトでは英訳を含めてその全てが公開中)。

 

◆最古の公式上陸調査

 まずは尖閣から始めよう。最初に紹介するのは、向鴻基という琉球王族の尖閣上陸に関わる記録である。(文書の正式名・向姓具志川家家譜・十二世諱鴻基)。

 一八一九年、琉球王族・向鴻基は、薩摩藩藩主の叙官を賀する公務で那覇から薩摩に往く薩摩船に乗る。ところが、その船があいにく暴風雨により、琉球最北端の硫黄鳥島からはるか西に流され、「魚根久場島」に流れ着いたのである。以下は同記録の現代語訳だ(原文は報告書参照)。

 「17日に天気がようやく晴れ、高い島が見えたが地名が分からなかった。(後にこの島は地元で「魚根久場島」と呼ばれると聞いた)。18日、その島の下まで航行して入江に停泊し、用水を汲もうとしたが、湧き水は無かった。三日間連続でその個所で風を待った。突然暴風雨が激しく起こり、錨も綱も全て波浪によって絶たれた。船は風にまかせて(更に……筆者)漂流し、船上の人々は幾度も神助を求めた。幸いに23日にまた高い島が見えた。24日、次第にその島に近づいた。島の頂上に一人がいて……船に手を振った。また5、6人が旗を振って入江を示した。すぐに船員に大声で地名を問わせると、『与那国島』と答えた」(傍線筆者)

 船はまず「魚根久場島」に漂着するとともに、更に漂流。最後に「与那国島」に流れ着いたというのである。ここで注目されるのは、「魚根久場島」の入江で、「用水を汲もうとしたが、湧き水は無かった」とあること。つまり、一行はほぼ間違いなくこの島に上陸したと解され、これは一八四五年に上陸したとされる英国人の記録よりも二十六年早い上陸記録ともなるということだ。いい換えれば、これは「琉球王族による最古の公式上陸調査」ともいえ、かかる記録のない中国側主張に対する有力な反駁資料になること確実といえる。

 次に紹介したいのは、わが国が明治二十八年一月十四日に、尖閣を沖縄県の所轄として日本領土に編入して以後の実効支配の事実を示す記録だ。その翌年八月に沖縄県は同県在住の古賀辰四郎に尖閣諸島開拓の許可を与えるのだが、開拓は島への交通不便のため難航することとなった。そこでその打開策として、古賀は沖縄県知事に尖閣諸島への往来につき、当時本土―台湾間で船舶を運航していた大阪商船に働きかけてもらうことを要請したのである。以下はそれを受けての同知事から大阪商船社長へ宛てた紹介状である。

 「現在の状況からみたところ、右の両島(久場島と魚釣島)とも……いかんせん絶海の孤島であり、交通が不便であるために思うように事業を企画することができません。一手に汽船を借り入れて航行しようにも、到底その収支をうめあわせることはできないので、大変な困難となっております。このうえは貴社(大阪商船株式会社)の御配慮を煩わす他に良策はないと、このたび本人(古賀辰四郎)から私に申し出てまいりました。……本人の希望が貫徹できるように、特別にお取り計らいくださいますようお願いかたがた本人の紹介まで」

 なお、これに先立つ古賀の知事宛の請願書もまたここには同時に紹介されている。

 「海産物の採取や開墾地での収穫は年一年と増加しており、殖産興業奨励の趣旨にも適い、また国家利益の一端にもなるような計画が立ちました……事業はすでに緒についており、今後ますますこれを拡張して国恩に対して少しでも報いたいとの気持ちを日夜寝食を忘れるほど抑えることができません。何卒特別の御詮議をいただいて大阪商船株式会社に年に三、四回の往復寄港をしていただけますよう御照会をお願い致します」

 当時の古賀の意気込みが手に取るように伝わってくる書状だが、ちなみにこの請願書の提出が明治三十二年一月で、沖縄県知事の紹介状の日付が同一月十九日。沖縄県がこの古賀の意向に応えて、即座に動いたことが読み取れる。

 

◆中国領でないことを示す明・清代の地誌

 尖閣につき、もう一つここで紹介したいのは、中国明代と清代の官製地誌(地理書)である「大明一統志」と「大清一統志」にある記録だ。尖閣は既に明代から「中国の海上防衛区域」に含まれており、同時に台湾の付属島嶼としても認識されていた、というのが従来からの中国側主張だが、この記録はこの主張を真っ向から否定するものとなっているからだ。

 まず「大明一統志」である。対象となるのは「福建省の巻」だが、ここでは福建省全八府(府は日本でいう県)についての記述があり、その中でこの時代、琉球への出港地であった泉州府につき、「泉州の領域は東に海岸まで」と記されている。つまり、尖閣は明確に泉州の領域外であることがここでは示されているといえるのだ。

報告書36頁 それだけではない。福建省の首府・福州は、尖閣の正西方に位置し、後に琉球への出港地ともなっていく重要ポイントでもあるが、この福州に関わる記述でも「領域は東に海岸まで」と同様に記されている。つまり、尖閣は福州の領域にも含まれていないことが明らかだといってよい。その上で、解説は以下のような「念押し」もまたしている。

 「福建だけでなく基本的に明国の領土は大陸海岸までで尽きる。ただ広東省の瓊州府(海南島)だけは明の領内地として第八十二巻で記述される。そのため、単に記述の体例として全島嶼が除外されているわけではないことが分かる。なお、清国に至って台湾島西岸を侵奪したため、福建省台湾府が官製地誌に加えられるが、明国ではまだ台湾島を福建省に含んでいない」

 海南島についての記述がある以上、島の存在が全て省かれたわけではない。また、清国時代になると台湾がこの地誌に加わるが、むろんまだここでは明国の領土に含まれてはいない、ともいうのだ。

 そこで次に「大清一統志」の記述が問題となる。以下はその部分に関わる現代語訳だ。

 「第二百六十巻福建省に曰く、『(領域は)東に海まで100里』。……第二百六十一巻福州府に曰く、『(領域は)東に大海まで190里』。第二百七十一巻台湾府に曰く、『(領域は)東に中央山脈の先住民の境界まで50里、……北に鷄籠城砦の海まで2315里』」

 「大明一統志」と同様、ここでも福建省の領域と福州府の領域の東限、そしてこの時代に初めて領土となった台湾府の領域の東限と北限がそれぞれ示されている。しかし、ここでもその東限は明代と変わらず「海まで」とされており、尖閣は意識されていない。また、新たに領土となった台湾府についても、尖閣を意識した記述はない。「鷄籠」とは現在の台湾の基隆であり、「北に鷄籠城砦の海まで2315里」とある以上、ここから遙か北東海上の尖閣が領土として認識されていた、などということは全くあり得ないという話だ。

 むろん、これに付図としての「福建全図」と「台湾府図」も紹介されており、これを見ても尖閣が領土として認識されていなかったことが明確になっているともいえるのだが、ここでは省く。

 興味がおありの読者は是非ともウェブサイトで全体をご覧いただきたい。

 内閣官房領土・主権対策企画調整室のWEBサイト
 http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/index.html

(日本政策研究センター代表 伊藤哲夫)

 

【本稿の主な内容】

 

 ・最古の公式上陸調査

 ・中国領でないことを示す明・清代の地誌

 ・日本の実効支配を示す明確な資料

 ・米国は竹島を韓国領土とする主張を明確に退けた

〈『明日への選択』平成29年7月号・要約抜粋〉