人権否定の平和主義

 五月三日、憲法施行七十年目のこの日、護憲派メディアは平和憲法によって平和と繁栄がもたらされた七十年として持ち上げる一方、例えば朝日新聞は今はその憲法が「かつてない危機」にあり、その「根底には、戦後日本の歩みを否定する思想がある」と書いた。

 戦後の繁栄は第一に大多数の日本人が額に汗して働いた結果であり、政治の大筋で選択を誤らなかったためでもある。また、平和は自衛隊の努力と日米同盟によって確保されたきたのが否定できない事実である。かつて講和条約や日米安保に反対した新聞が、恥ずかしげもなく「戦後日本の歩み」を否定するな、などとよく言えたものだと、その傲慢さに驚くばかりである。

 翌日の社説では九条は「戦後日本の平和主義を支えてきた」だけでなく、「個人の自由と人権が尊重される社会を支えてきたのも九条」であり、それを変えれば「戦後日本は『骨格』を失う」とも書いている。小誌読者には突拍子もない発想だが、記者はこの一節を読んで思い出したことがある。

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 二十年も前の産経新聞の記事である。書き手は当時社会部次長だった大野敏明氏で、「いきなり個人的体験を書く」という書き出しから始まる。

 「私の父は自衛官だった。小学生も安保反対デモのまねをしていた60年安保騒動の翌年、小学校の4年生だった私は社会科の授業中、担任の女性教師から『大野君のお父さんは自衛官です。自衛隊は人を殺すのが仕事です。しかも憲法違反の集団です。みんな、大きくなっても大野君のお父さんのようにならないようにしましょう。先生たちは自衛隊や安保をなくすために闘っているのです』と言われたことがある」というのである。

 「聞いていた私は脳天をハンマーで殴られたようなショックを受け」同時に、「それ以来、同級生の態度が変わった」という。「給食の時間は机を集めてテーブルクロスをかけ、みなで一緒に食べていたのが、私ひとりだけのけ者になった。教室の隅でひとりで食事した。朝、学校に行くと上履きがなくなっていた。運動場から帰って来ると、ランドセルの中身がほうり出されていたこともあった。下校途中、石を投げられてけがをしたこともある」。

 そのため「学校に行くのがいやになり、半月ほど登校拒否」し、「結局、親に説得されて学校に通い始めた」というのだが、大野少年の心がどれほど傷ついたか、また彼を「説得」した父である自衛官はどんなにつらい思いだったか。心が痛む。

 話はこれで終わらない。転勤族である自衛官の子弟が多数在籍していた都立の全寮制高校に進学した大野氏は、「それまでは自分だけが特殊な経験をしたのかと思っていた」が、決してそうではないことを知る。「小学校で教師が『自衛官は人殺し。鉄砲もって喜んでいる』といったため、『人殺しの子供』とののしられた経験をもつ者もいた。何人かは中学校で日教組の教師とやり合い、内申書の評価を下げられるという苦汁をなめさせられた」というのである。

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 日教組を非難するためだけに引用したわけではない。自衛隊には他にも住民登録拒否、大学への入学拒否……人権否定とも言うべき厳しい環境があった。その典型例を紛れもない歴史的事実として紹介したかったのである。

 こうした人権否定の厳しい環境にも目を向けることなく、ただ「平和主義の七十年」などというのであれば、それは人権否定の平和主義と言わねばならない。結局、九条が「戦後日本の平和主義」を支え、「個人の自由と人権が尊重される社会」を支えてきたなどというのは、単なる空想かイデオロギーでしかなかった。

 そんな空想で日本の平和を語るから、平和憲法が「かつてない危機」にあるなどとバカげた話になってしまう。いま、危機にあるのは憲法ではなく、北朝鮮の核ミサイルや中国の海洋覇権の脅威にさらされている日本そのものである。(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)

〈『明日への選択』平成29年6月号〉