日本政策研究センターは歴史と国益の視点から日本再生を目指す、戦うシンクタンクです
今月の主張
明日への選択
カレンダー
2010年 6月
« 5月   7月 »
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
27282930  
日本政策研究センターとは
2010年6月4日(金曜日)

「菅直人新政権」の思想的背景 民主党が依拠する「市民自治」理論とは何か

「菅直人新政権」の思想的背景

民主党が依拠する「市民自治」理論とは何か

「新しい公共」「地域主権」「官僚内閣制の打破」……民主党政権の施策の背景には、彼らが師事する松下圭一氏の理論がある。「松下理論を現実の政治の場で実践する」(菅直人氏)、「まくら元に置いて、年中読んでいた」(仙石由人氏)――次期政権の首相と官房長官もかつてこのように述べたことがあるが、「国家主権」や「国柄」の対極にある松下理論という危険な「市民イデオロギー」を政策化すれば、日本国家の解体は必定だ。

 

◆「松下理論を現実の政治の場で実践する」

 「民主党には政治に対する哲学や思想はありません」――。さる四月十日、新党「たちあがれ日本」の旗揚げ記者会見で、共同代表の与謝野馨氏はこう述べた。確かに、これまで鳩山政権がやってきたことを見れば、こうした指摘も理解できないわけではない。子ども手当をはじめとするバラマキ政策、沖縄の普天間基地代替施設をめぐる果てしない迷走、あるいは「事業仕分け」に象徴されるパフォーマンス等々、どこにも国家経営の確たる「哲学や思想」のかけらも見出せないからだ。

 とはいえ、民主党政権にはいかなる「哲学や思想」もないと高をくくってしまえば、甚だ危険である。国家を治めるための哲学こそないが、この政権が掲げる政策や政治スローガンには、国家を破滅に導く政治イデオロギーが透けて見えるからだ。

 その一端が、「新しい公共」や「地域主権」や「官僚内閣制の打破」などである。これらの言葉は必ずしも民主党の専売特許ではないが、民主党が政権の座に就いたことで市民権を得、さらに鳩山政権の重要な政策課題に格上げされたわけである。

 しかし、これらの一連の言葉のオリジナルな発想が、一九六〇〜七〇年代に書かれた市民運動理論にあることは余り知られていない。具体的に言うと、政治学者の松下圭一氏が流布した「市民自治」理論である。

 八木秀次氏は『正論』(五月号)において、とりわけ「新しい公共」について、その発想の根が「松下理論」にあることを指摘している。深刻な問題は、「官僚内閣制の打破」や「地域主権」にしても、その発想の根は「松下理論」にあると考えられることだ。政権交代後に出版された著書で松下氏はこう記している。

 「今日ではひろく使われている《官僚内閣制》という言葉を造語して、一九九八年、……『官僚内閣制から国会内閣制へ』を書いた。……その後一〇年をへて、この予測はようやく《政権交代》をチャンスとしながら、官僚内閣制の解体、《国会内閣制》の模索というかたちで、日本の政治現実にのぼってきた」(『国会内閣制の基礎理論』)

 市民運動出身の菅直人副総理は、松下氏の影響を特に強く受けており、「不肖の弟子」を自称していたほどだ。『大臣』(平成十年)の中で菅氏は記している。「私が政治家となって政治、行政の場で活動するにあたり、常に基本としていたのは、この本(引用者注『市民自治の憲法理論』)に書かれている憲法理論だったと思う。それは、大臣になったときも同様だった。『松下理論を現実の政治の場で実践する』というのが、松下先生の“不肖の弟子”である私の基本スタンスだったのだ」と。

 むろん、この話は単なる個人的なエピソードではない。民主党政権が推進する政策と松下氏との深い関わりを象徴的に示すものと言える。

 とすれば、「松下理論」とは何かを知らずしては、民主党政権の真の危険性は理解できないことになる。そこで、『市民自治の憲法理論』に主に基づき、「市民自治」論の概要を示すとともに、そうした「理論」がいかなる形で政策理念と化しているかの一端を示したい(ちなみに、松下氏の著書には、難解な言い回しや独特の造語がしばしば出てくるが、辛抱してお付き合い願いたい)。

 

◆国家統治と対決する「市民自治」理論

 まず、『市民自治の憲法理論』を書いた松下氏の意図を確認しておこう。一言で言えば、明治以降、「国家統治の基本法」とされてきた憲法を、国家や官僚ではなく、「市民」を主体とする「市民自治の基本法」へと転換することである。そうした問題意識を氏はこう述べている。

 「今日も、日本の憲法理論の主流の理論構成は、国民主権を国家主権へと置換して、『国家統治』を起点におき、国民は国家の要素ないし機関にすぎず、自治体も国家受任機関とみなしている。とするならば、憲法理論は、今日あたらしく『市民自治』から出発しなおさなければならない」

 つまり松下氏は、戦後憲法学は生温いと批判しているわけである。国民主権の憲法となったにもかかわらず、未だに戦前の美濃部達吉に代表される「官治型憲法理論」が温存され、国民主権は戦前同様、国家統治や国家主権の単なる正統性原理に留められているではないか、と。

 松下氏によれば、今求められているのは、「ルソーの提起した国民主権の永久革命的性格」――つまり「国民主権を日常的に活性化する制度の構成」だという。そのカギとなる概念が「市民自治」である。氏は言う。「市民自治とは、自治体レベル、国レベルをふくめた政治の構成原理を意味している。……この市民自治は国家統治と対決する政治の構成原理なのである」と。

 これは要するに、国家を前提としない地方自治、国家に対抗する地方自治権を樹立しようという話である。つまり「市民自治」は、国家統治や国家主権といった国家観念を解体するための概念装置だとも言える。

 その証拠に、「国民主権の日常的な活性化」が求められていると言いながら、松下氏はその舌の根も乾かぬ内に、国民主権を「市民主権」と「分節主権」という造語に置き換えてしまう。「国民主権は、国家主権に解消することなく、市民主権・分節主権という展開によって、市民レベル、国レベルで、日常的に活性化されることを必要としている」と。

 何とも分かりにくい表現だが、要するに「市民自治」の具体化として、政治の主体として「市民主権」が、政治の構造として「分節主権」が構想されるべきだというのである。

 記者なりに解釈すると、「市民主権」とは、「国民」以前に「市民」が政治の主体であるという話であり、「分節主権」とは、中央政府と地方政府の対等併存論で、「地域主権」のオリジナルな発想がここにあると言える。政治決定は「市民」から出発して、市町村、都道府県へと上昇し、国は、市民・自治体レベルの政策の「調整・先導機構」に位置づけ直すべだと松下氏は述べている。

 詳しく触れる余裕はないが、こうした主張の元にあるのが「複数信託」説だ。市民が原初的にもつ政治権力が、国と自治体に二重に信託されたとする憲法解釈である。だから自治体は行政権や立法権ばかりか、国法の独自解釈権も持つと氏は言う。

 しかし、地方自治権の根拠をめぐる学説は、国の統治権や憲法の規定に由来するとの学説が一般的であり、複数信託説は異端の学説である。

 ともあれ、こうみてくれば、「市民自治」論の正体が分かろう。それは結局、国家主権や国家統治の観念を一掃するための左翼的解釈改憲の試みなのである。言い換えれば「市民自治」論は、憲法の国民主権の原理を換骨奪胎して、国家に抵抗する市民運動や自治体権力を正当化するためのイデオロギーなのだ。むろん、そこで言う「市民」が、国籍を前提としない「市民」であることはもはや指摘するまでもなかろう。

 

◆「国家の死滅」を展望する革命論

 こうした異端の学説が、民主党政権の政策理念に流れていることは何とも驚くべきことだ。その問題状況は後ほど述べるとして、次に、この「市民自治」論がいかなる背景から生まれてきたかを見てみたい。端的に言えば、六〇年代に日本社会に起こった公害問題や都市問題などをテーマとする市民運動の台頭である。

 実際、『市民自治の憲法理論』の中で、そのことに松下氏は繰り返しふれている。例えば本書はしがきの冒頭には、「今日の市民運動は、日本史上はじめて、〈市民自治〉による〈市民共和〉という発想を成立させてきた」とある。

 「〈市民自治〉による〈市民共和〉」とは、要は国家による「タテの統治」と異なり、市民がヨコに連帯して「公」をつくるということだ。まさに今の民主党が推進する「新しい公共」とも重なる発想と言えよう。

 ここで何より注目されるのは、当時の市民運動を松下氏が「市民革命」になぞらえていることだ。「今日、〈市民革命〉ともいうべき市民運動の展開は、日本の政治の地殻変動を加速しつつあるだけではなく、さらに日本の思想したがってまた社会科学の転換をせまりつつある」と。

 なぜ、松下氏は市民運動を「市民革命」になぞらえたのか。それは第一に、市民運動の台頭は「共和意識をもった市民的人間型の、日本史における最初の歴史的形成を意味している」と氏が考えたからだ。第二に、市民運動は「明治一〇〇年の政治構造・思想構造の全体を問うている」がゆえに「日本の歴史体質のトータルな転換こそが、現在日程にのぼっている」と見たからだ。

 この「日本の歴史体質のトータルな転換」を、さらに進めることが、「市民自治」論の真の狙いといえる。その意味で、「市民自治」論は「日本版市民革命」の指南書なのだ。ちなみに、「共和意識をもった市民的人間型」とは何かというと、それは何より「労働者階級」である。松下氏は言う。「労働者階級その他の内部から、市民的人間型の大量醸成の条件が形成されてきた」と。

 一方、こうした事柄とも関連して指摘しておきたいのは、「市民自治」論が、ある種の「発展段階史観」に依拠していることである。その「史観」の一端は、松下氏の別の著書において、次のように描かれている。

 「国家とは、農村型社会から都市型社会への大転換、つまり近代化の推力としての、過渡媒体にとどまる。都市型社会の成立がひろがれば、政府は、自治体、国、国際機構に三分化するとともに、政治は、この各政府レベルにおける、《政策・制度》の模索・選択についての、市民の『組織・制御技術』となる」(『政策型思考と政治』)

 つまり松下氏は、近代化という国家主導の「過渡段階」が終われば、分権化と国際化が進み、「国家観念の終焉ないし死滅」がもたらされ、「国家はたんなる国レベルの政府となる」と展望するわけだ。この点で「市民自治」論は、国家の死滅を予言したマルクス主義史観とも決して無縁とは言えまい。佐伯啓思氏は、松下氏が目指す「市民社会」について、「プロレタリア独裁による社会主義」だと断じている。

 なお余談になるが、菅氏から戦略担当相を引き継いだ仙石由人氏は、朝日新聞の早野透氏との対談で、先の『政策型思考と政治』を「まくら元に置いて、年中読んでいた」と打ち明けている。早野氏が「松下さんのこの本は、民主党の路線につながる基本哲学ですね」と水を向けると、「あの時代にいまの社会を見通していた、天才的ですね」と応じている。

 

◆なぜ「統治」が崩壊しつつあるのか

 以上、松下氏が説く「市民自治」論の概要をかけ足で見てきた。そこで問題となってくるのは、「官僚内閣制の打破」というスローガンが、国家観念の死滅を志向する「市民自治」論とも決して無縁ではないことだ。無縁でないどころか、松下氏において「官僚内閣制の解体」は、国家統治や国家主権の解体という目標へ向けた一里塚として位置づけられている節がある。事実、松下氏は「官僚内閣制から国会内閣制へ」という論稿で、次のように述べている。

 「官僚組織が日本の近代化の機関車だった時代が終わって、都市型社会が日本なりに成立しはじめる一九六〇年代以降、市民活動の登場、自治体の自立がはじまるため、この官僚主導の国家主権・国家統治という考え方はくずされる」「市民活動が登場し、国民主権が市民主権というかたちで現実性をもってくる都市型社会では……国家主権型の『国家統治』という考え方は崩壊となったのです」(『国会内閣制の基礎理論』)

 今の官僚制度に多くの問題があるのは事実であろう。そうした問題の是正という限りでは、いわゆる「脱官僚」や「政治主導」なるものを一概に否定する必要もない。問題なのは、「官僚主導の国家主権・国家統治」が問題だといいながら、国家主権や国家統治という観念自体を松下氏が不要とみなしていることだ。現に松下氏は「国家主権=官僚主権」なる図式をこしらえ、対外的な国家主権さえ否定している。しかし、国家統治を否定すれば国は立ち行かないし、国家主権を軽んずる為政者に、国を治められるはずもない。「脱官僚」「政治主導」を叫ぶ鳩山政権が、内政外政ともに失態を演じ続けている現状は、そのことを暗示しているように思われてならない。

 ちなみに、最近の朝日新聞の世論調査で、鳩山内閣の支持率が二五%に落ち込み、内閣不支持の理由に五七%が「実行力」を挙げた。そのことについて、朝日の社説(四月二十日付)は、「政治主導のかけ声はいいとしても、官僚依存をやめたら、政治家の力不足がむき出しになった。政権の統治能力そのものを有権者は疑っている」と分析して見せた。

 では、なぜ鳩山政権はかくも「統治能力」が乏しいのか。むろん、首相の資質の問題なども大きいが、国家主権や国家統治といった観念を否定する「市民イデオロギー」が災いしているとの思いを禁じ得ない。

 確かに、「新しい公共」や「官僚内閣制の打破」といった言葉は、何か新しい政治が始まりでもしたかのような気分にさせてはくれる。だが、そうした言葉の裏に、国家の瓦解を招きかねない「危険な理論」が潜んでいることを忘れてはならない。

 

◆「地域主権」構想は「分節主権」の焼き直し?

 問題はそれだけではない。昨年の鳩山政権の初閣議において、首相は内閣の「基本方針」として、「日本が明治以来続けてきた政治と行政のシステムを転換する歴史的な第一歩」と位置づけ、そのために「本当の国民主権の実現」と「内容のともなった地域主権」を二つの柱として、新たな国づくりに向けて動き出したいと宣言した。これらのスローガンも、「松下理論」とは無縁ではない。

 この二つの柱について、菅副総理は、「あえて、『本当の』『内容のともなった』としたのは、単なるスローガンではないという宣言」だと説いている。単なるレトリックではない、本気でやるというのである。

 菅氏によれば、「本当の国民主権」とは「政治主導の内閣」を意味している。そこにあるのは、日本の現状は「官僚主権国家」だとする見方であるが、これは松下氏が言う「官僚主導の国家主権・国家統治」という発想とも重なるものだろう。

 一方、「本当の国民主権」の方は「手段」であり、「目標」は「国のかたちを中央集権国家から『地域主権』に変えることだ」と菅氏は言う。

 「これからの国の役割は、外交と防衛など、まさに国全体のことに限定し、内政上の大半の仕事は地方自治体に任せるべきだ。…『分権革命』により『地域主権』が実現することで、全国的に活力を取り戻すことができるはずだ。
 この分権革命の最大の障害が官僚主導政治である。それが国民主権の政治主導の政権となってはじめて、分権革命も実現可能となる」と(『大臣』増補版)。

 ここにあるのは、「中央集権国家=官僚主権=悪」、「地域主権国家=国民主権(政治主導)=善」という単純図式である。これがいかに短絡的で危険な発想であるかを論じる余裕はないが、改めて指摘したいのは、先にも触れたように、「地域主権」は松下氏が言う「分節主権」「複数信託論」の焼き直しとも言えることだ。

 実際、こうした考え方に基づき、すでに少なからざる地方自治体が自治基本条例を制定している。中には外国人にも広義の参政権や住民投票の投票権・請求権を認めるなど、国籍を前提としない「市民主権」の実践が始められている。鳩山政権が掲げる「地域主権」構想は、それを政府が音頭をとって全面展開しようという試みではないのか。

 

◆国家主権と国柄の解体

 そもそも「主権」とは、「すべての中間団体に優位する最高の権力」の意味であり、対外的には他の内政干渉を許さぬ独立性を意味する。仮にその意味で「地域主権」が解釈されれば、教育でも福祉でも、「地域」(地方自治体)が決めたことについて、国は口出しできないことになる。あくまで国家統治を前提とした「地方分権」を徹底する意味で「地域主権」と言っているだけとの見方もあるが、そんな保障はない。

 とりわけ、「市民自治」論に基づいて「地域主権」が推進されることにでもなれば、わが国の主権は大きく損なわれていくだろう。菅副総理は、外交と防衛を「国の役割」に留めるらしいが、師匠の松下氏は、例えば外交について、「内閣による独占は実質的に崩壊している」と言う。また、防衛についても氏は、「自衛権は個人に属し、国に属するのではない」と捉え、軍隊も「国レベルだけでなく、自治体レベルでも設置できることになる」と言う。この論理で行くと、中国との朝貢外交を始める自治体や中国に基地を提供する自治体が現れてもおかしくはない。

 むろん、こうした「地域主権」に孕まれた危険性は、外国人参政権付与法案が実現すれば一層深刻さを増す。特に「国境の島」や豊かな水資源を湛える山村の過疎地などを含む自治体が国家から切り離されるならば、いずれ外国の事実上の「植民地」とならないとも言い切れない。

 問題はそれだけではない。井尻千男氏が懸念しているように、仮に道州制が導入され、「地域主権」が付与された場合、ある州は共和政体的となり、天皇陛下の行幸を受け入れないということも起きかねない。その意味で、「地域主権」構想は、日本の国柄の解体につながる恐れも決して否定できないわけである。

 以上、松下圭一氏の「市民自治」論を概観するとともに、それが民主党政権の政策理念の中に受け継がれている現状を論じてきた。こうした点からも、やはり民主党政権は「日本解体政権」と断じざるを得ない。〈日本政策研究センター研究部長 小坂実〉

〈初出・『明日への選択』平成22年5月号〉

◎日本政策研究センターの月刊誌『明日への選択』は、民主党批判でも、歴史認識・外交・安全保障、家族・社会、教育問題でも、誰も論じてこなかった独自の視点から問題を取り上げ、注目を集めています。マスコミや論壇誌にはないオリジナルの「切り口」が『明日への選択』の身上です。政治に関心のある方に、ぜひご購読をおすすめします。→お申し込みはこちら


サイト内検索
お知らせ
アーカイブス一覧
login